誓願寺
浄土宗西山派、山号は妙光山。享禄2年(1529)創建の尼寺。鎌倉幕府を開いた源頼朝は、久安3年(1147)この地で誕生したといわれ、産湯の井戸といわれるものが境内に残っている。「この地は平安時代末期、熱田大宮司藤原氏の別邸があったところで、藤原季範の娘由良御前は、源義朝の正室となり、身ごもって久安三年(1147)熱田の実家に帰り、この別邸で頼朝を生んだといわれる。」
もう一つの頼朝生誕地・産湯伝説のある瑞穂区龍泉寺の亀井水と鎌倉街道
 藤原氏の名門・藤原信頼の加冠によって元服し、「頼」を賜って「頼朝」と称しました。そして母方の縁で蔵人、皇后宮少進、右兵衛権佐などを歴任し、源氏の嫡流として着実に朝廷の武官としての道を進んでいきましたが、平治元(1159)年、頼朝13歳のときに平治の乱(藤原信西・平清盛×藤原信頼・源義朝の争い)が起こり、父や兄二人に従って初陣を飾りましたが、戦いは藤原信西・平清盛側の勝利に終わり、頼朝は父・兄弟・郎党とともに東国へと逃避行のさなか、近江国で吹雪に遭遇し、寒さと疲労のために馬上で居眠りをしてしまったため、一行とはぐれて平頼盛の家人・平宗清に捕らえられてしまいました。
 頼朝が脱落したのちも一行は東国をめざして下っていきましたが、この道中で、頼朝の兄・源義平(左衛門尉)は北陸の源氏党を結集するため一行と別れ、その後、一行は落ち武者狩りとの戦いで、源朝長(中宮大夫)が矢で射られ、美濃国青墓で自刃。源義隆も矢で射られて戦死。義朝は郎党・斎藤実盛たちとも東国で落ち合うことを約して別れ、自身は尾張国長田庄の郎党・長田忠致(長田庄司)のもとに身を寄せたところ、ひそかに平家に心を寄せていた忠致によって暗殺されてしまいました。義平ものちに単身で清盛暗殺を企てましたが失敗し、斬首されており、義朝の血を引くものは頼朝・希義(まれよし)兄弟と、常盤御前の子の今若丸(阿野全成)・乙若丸(卿ノ公義円)・牛若丸(源義経)のみとなりました。
 平清盛は捕らえた頼朝・希義を処刑するように命じますが、清盛の長男・平重盛と清盛の義母・池禅尼の助命嘆願によって、清盛も折れ、頼朝は伊豆国へ、希義は土佐国へそれぞれ流罪にすることで納得しました。さらに常盤の三人の子は寺院預けとし、成長ののちは出家させることを条件にして助命されました。池禅尼は頼朝を我が子のようにかわいがり、伊豆国へ向かう頼朝に着物などをあたえたと伝えられます。
源頼朝像
金比羅神社