東海道道標
東海道と佐屋街道、木曽路の分岐点で、熱田神宮へは二丁(約218m)の距離であることを教えています。
旧東海道
伝馬町より200メートル位で陸路東海道の西端のT字路に達します。 つきあたりの左角(東南隅)に左の写真の道標があります。

徳川家康幼児幽居地
天文16年(1547)家康が竹千代と呼ばれた6歳の時、岡崎から駿河の今川氏へ人質に出されたが、戸田康光により織田信秀へ送られた。家康は加藤図書助に預けられ、2年程幽居した。建物は戦災によってすべて焼失。
鈴之御前社(鈴の宮)
もとは、精進川の西側にあったが戦後現在地に移転。熱田社に参詣の人々のみそぎの場。7月31日の「茅の輪くぐり」の神事は有名。
都々逸発祥の地碑
寛政12年(1800)開店した鶏飯屋という茶屋に、お亀とお仲という美声の女子衆がいた。「ドドイツ・ドイドイ」の囃子の潮来節に似た節回しの歌で評判を得たという。「殿々逸節根元集」により発祥の地といわれる。

「裁断橋物語」
 天正18年(1590年)2月18日、堀尾金助は、叔父の泰次(やすつぐ)に伴われて御供所(ごくしょ。 ごぐじょ。現愛知県丹羽郡大口町堀尾跡)を出発し、 小田原に出陣します。 世に小田原評定という 言葉が生まれた、有名な戦さです。 金助と母は、熱田まで約30キロの道のりを共に歩きまし た。 左手に小牧山城、右手に雪に覆われた伊吹山がよく見えたことでしょう。 岩倉、小田井を抜け、熱田に着いたのは、その日の夕刻に近かったと思われます。日頃信仰している熱田様にお参りし、 祈願をかけました。熱田の宿で最後の夜を、母と子は何を語り明したのでしょうか。翌朝、母は熱田の宿の東のはずれ、精進川に架かっていた裁断橋まで見送ったのですが、これが金助との最後の別れとなりました。
 その年の6月12日(大口を出て116日目)小田原の陣中にて、金助は病死します。満17歳の若さ(今でいうと 高校2年生)でした 。 金助の死を知らされた母は、その後、悲しみと涙の日々を送りましたが、若すぎる金助の死を無駄にしたくないという気持ちから、世 間の多くの人々の心に、不幸と愛惜の情をとどめたいと念じました。 そこで、金助と最後の別れの場となった裁断橋が古くなっているので、修築すれば諸人の助けになり、金助の菩提を 弔うにかなうとして、蓄えた金子を投げ出しました。
 その後、金助の33回忌を翌年に控えた元和7年(1621年)に裁断橋の再度の改架を思い付きます。しかし、擬宝珠(ぎぼし) に彫り込む文章を考え、橋の完成を待つばかりとなりながら、それを見ることなく金助の母は永眠してしまいました。
裁断橋・姥堂
小田原の合戦の際、18歳で病死した堀尾金助の供養のため、母が願いをこめて東海道筋に架け替えた裁断橋の擬宝珠(市指定文化財)に刻んだ碑文が有名。小堂は「オンバコさん」を祀った姥堂。擬宝珠は名古屋市博物館に保管。