名古屋城 関ヶ原の戦いで天下の実権を握った徳川家康が、慶長15年(1610)海陸の連絡に便利な那古野台地に築城。築城にあたっては、加藤清正を総指揮官とし、20名の諸大名が動員され、諸国から職人や土工たちが結集。城下は空前の人出で埋め尽くされました。これに伴って清洲の士民が移り住み(清洲越し)神社・仏閣までもが移築され、市街地ができあがりました。以来、徳川御三家筆頭の城下町として尾張藩の中心となり、江戸・大坂・京につぐ発展をみました。

堀川  堀川は今をさかのぼる380年ほど前の慶長15年(1610年)に、名古屋城築城に併せて徳川家康が郷土の武将福島正則に命じて造らせた人工の河川である。名古屋城の建築資材および「清洲越し」で整備の進む名古屋の城下町造リの資材等の運搬路として利用された。また、人口の増えた城下町への生活物資輸送路として人々の生活に密着した活気あふれる川であった。
 現在54(名古屋港〜新州崎橋までは22)ある橋のうち、江戸時代初期から架けられている五条橋、中橋、伝馬橋、納屋橋、日置橋、古渡橋、尾頭橋は「堀川七橋」と呼ばれ市民に親しまれている。

 都市計画は、城を北端として南に逆三角形に延ばして、城郭の南側の部分を基盤割による城下町の「町割」である。名古屋城の築城が始められ、土族・町民が清洲越しするようになった。1610年頃(慶長15年)の名古屋は、ほんの数ヶ町=堀詰町、納屋町、益尾町、車町、石町で作る町=に過ぎなかった。清洲越しが進むと、おおよそ66の町が誕生した。
この中に「本町、鉄砲町、長者町、御園町、・・七間町、呉服町・・伊勢町、大津町、・・京町、中市場町、鍋屋町・・宮町・・」など、こうして享保(1716〜35)に至るまでに城下町の名古屋が完成されて行った。

大須界隈  戦前は大須観音を中心に名古屋一の盛り場で賑わい、戦災後も観音を中心に見事に復興を成し遂げ、更にパソコンの店などの誘致が若者を惹きつけ、新旧混在しながら名古屋駅前、栄の盛り場に次ぐ賑わいを見せている。

古渡・日置  観音様南の日置神社と門前町(西本願寺別院)、織田家ゆかりの古渡城趾、ご城下南の大木戸があった橘町(東本願寺別院、切支丹遺跡の栄国寺)、に繋がる。

金山  金山のJRと名鉄が併走する路線上にかけられた陸橋上から見ると、ここで二つの台地が南北に分断されていることが良く分かる。ご城下の最南端で、東海道を熱田の宿から北上してきた「美濃路」と「佐屋路」の分岐点に当る。交差点の南西角に佐屋路の標石として有名な道標が立っている。
 美濃路はそのまま北上して名古屋、清洲など七宿を経て中山道垂井宿に至る。佐屋路は左折して、堀川を尾頭橋で渡り岩塚、万場、神盛(かもり)、佐屋の四宿を経て、佐屋湊から佐屋川を下って桑名に至る。