日置は平安期、片端(カタワ)の里と呼ばれ、日本霊異記で活躍する道場法師の出生地である。古渡は戦国ロマンの地であり、古渡城趾、キリシタン処刑の千本松原跡地の栄国寺、日置城趾と戦国・江戸初期の出来事が一瞬にして思い浮かぶ。
本願寺東別院:元禄三年(1690)藩主より古渡城趾を賜り堂宇を建立。当国最大の大寺で戦災で焼失・再建。
古渡城跡
織田信秀が那古野城を奪取すると自身はこの地に城を築き東南方面に備えた。天文十五年(1546)信長は平手政秀らと古渡城に来て十三歳で元服して三郎信長と名乗った。天文十六年(1547)信秀が大垣に出陣していた留守中に、清洲織田家の坂井大膳らが攻め寄せて町を焼き払った。翌十七年、信秀は末盛城を築き移ったので僅か十四年間で廃城になった。
下茶屋公園:別院に隣接し、古渡城の堀跡を利用した緑地公園。ここもホームレスの住処となっているのが残念。

栄国寺
このあたりは千本松原と言われた刑場で、キリシタン弾圧の際、切支丹宗徒207名が処刑された所。1665年に元刑場で在った所に菩提を弔うため尾張藩主2代目光友が創建。のち栄国寺と改められた。寺内には佛足石、千人塚、釈迦如来立像、切支丹遺跡博物館などがある。千人塚は日当たりの悪い奥まった場所にあり、一層の哀れをさそう。石碑にかすかに十字が確認できる。

日置神社:祭神は天太王命、中世に品陀和気命を合祀し、更に明治になって隣接神明社の天照皇太神を合祀した。
延喜式神名帳に愛知郡日置神社とある。日置の地名、社名は日置郡のあったことから起った。姓氏録に『日置郡は天櫛玉命の男天櫛耳命の後』とある。櫛玉は太王の美称。日置部は暦を司った。
怪力の道場法師の伝説から境内には力石があり、村の若者たちの力比べが行われた。永禄三年(1560)五月織田信長が桶狭間の戦いに出陣するとき、戦勝を祈願したと伝えられる由緒ある古社である。

古渡稲荷神社:清洲越しでこの地に遷座

日出神社:清洲越しでこの地に遷座

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