金の鯱があまりにも有名な名古屋城大天守閣は、戦災で灰塵となったが、昭和34年に外観をそのままに鉄筋コンクリートで再建された。この時、金の鯱も復元された。
金の鯱は、檜の芯木に鉛板を張り、その上から銅板で被い、鱗に金を張り付けてある。築城以来、金の鯱は3度(享保・文政・弘化)に改修された。その度に金の純度が低下した。
正門:名古屋城の見所は天守閣だけではない。旧江戸城の蓮池御門が移築され、大戦で焼失後、天守閣とともに再建。
名古屋城は、関ヶ原の合戦後、江戸幕府を開いた徳川家康が、慶長14年(1609)東海道の要所として、また、大阪への備えとして、清洲から名古屋へ遷府を決定し、加藤清正、福島正則、前田利光等豊臣恩顧の大名の財政減を狙って普請を命じ、慶長17年(1612)に完成した代表的な平城です。
明治維新まで徳川御三家の筆頭尾張家の居城として機能しました。
第二次大戦の昭和20年(1945)5月、名古屋空襲の際、建物のほとんどが焼失したが、三つの櫓と門が残り、重要文化財として今に伝えられています。
天守閣:何と言っても五層五階の大天守閣。城頭に金鯱をいただく。この天守閣は加藤清正が独力で築いたもの。 
徳川義直が招聘した中国人学者陳元贇、張振甫。松平忠吉に仕えて日置流射術を伝えた長屋忠左衛門忠久、その弟子で京都三十三間堂の通矢で知られる星野勘左衛門茂則。朝日重村・文左衛門重章父子、中村厚斎・直斎父子、直斎の子得斎、厚斎の弟習斎、河村秀穎・秀根兄弟、秀根の子殷根・益根らの学者・文化人達がこの地区に屋敷を与えられた。

南東櫓からの遠景
東入口からの東南櫓
今日も輝く金鯱
堀に馴染んだ西北櫓
堂々の西南隅櫓
西側からみた天守閣

東二之丸門:清正の大石が正面にあり、一番美しい門であろう。
堅固な表二之丸門
北門から深井丸へ向かう。
石を運んだ大名の印がある

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