熱田台地と名古屋台地の西側を流れる「堀川」は、名古屋城下と熱田の海を結ぶ運河として生まれた。名古屋城の西の「辰の口」から広井・日置・古渡と下って熱田の西で海に注いだ。この堀川の開削には徳川家康の命で慶長十五年、福島正則が普請奉行として工事に当った。堀川は貨客運送に利用され、客を乗せた舟は名古屋城近くの朝日橋までのぼって来た。
辰口水道大樋
この樋は巾下御門枡形の北にあり、樋の両側は石組みで、底は南蛮タタキでできている。東の口に立切(水止)があり、これは外堀の水位を一定に保つためである。
又、西の端は切り石の銚子口があり、常に滝となり大幸川(現・堀川)に落ちていた。
朝日橋の上に「堀川堀留跡の碑」がある。
「堀川は慶長15年(1611)城下と熱田の浜を結ぶ輸送路として福島正則により開削されたと伝えられている。当時は名古屋城近くのこの地で堀留になっていたが天明4年(1784)に行われた大幸川の付け替え、明治7年(1877)の黒川冶愿による黒川の開削、更に昭和初期の改修を経て現在の姿になった。朝日橋は天明5年(1785)に初めて架橋され昭和初期まで橋の下には苔むした石積みの段差工があった。その水音から『ザーザー橋』と呼ばれたり、お堀の水の落し口近くにあったことから『辰の口橋』、あるいは橋の上を歩いたときの音から『ドンドン橋』と呼ばれ、人々に親しまれていた。

景雲橋・五条橋から
泥江県神社(ひじえあがたじんじゃ)
古くはこの地を広井八幡町と呼び、貞観元年(876)宇佐より勧請、築城以前は御園町、天王崎あたりまで広大な境内であった。堀川以前の旧大幸川時代に泥の入江であったのだろうか。泥を当時は(ひじりこ)と訓んだと記録にある。

中橋・桜橋・錦橋・納屋橋から

天王崎橋から


戻る  NEXT