名城公園 名古屋城を中心として、二の丸、三の丸、旧陸軍練兵場跡(北園)までの区域を含む、総面積76haの本市を代表する総合公園で、歴史の宝庫、緑の拠点、スポーツ・レクリエーションの場となつています。

黒川周辺 「黒川」は明治9年開削した黒川治愿氏にちなんで名づけられました。黒川治愿は明治時代、中部地方の数多くの河川工事に関わった人物。御用水は江戸時代からあったものの堀留に架かる朝日橋までしか船が行き来できませんでした。御用水とほぼ平行に走る黒川を作ったことで犬山まで船が通行可能になり、名古屋の産業は大いに発展したといわれています。

志賀公園 太古、現在の志賀一帯は海で、福岡県・志賀島辺りから一族が渡来し、「志賀」という地名をつけたといわれる。海童(わだつみ)を祀る綿神社は海(わた)のことである。織田信長の守役・平手政秀ゆかりの地でもある。

山田荘散策 平安時代、現在の北区は尾張国山田郡であり、山田町はその中心地でした。承久の変で後鳥羽院側につき美濃、宇治、瀬田と転戦し、ついに嵯峨にて自刃した山田次郎重忠の本拠地である。承久記に楠正成と同列に語られる不運の英雄である。

安食荘の史跡 かつては成願寺、中切、福徳、庄内川をはさんで味鋺まで安食荘とよばれた。矢田川・庄内川の氾濫を防ぐために開かれた“三郷水路”が流れる街。今では、水路はせせらぎとして蘇り、緑豊かな河川敷とともに憩いの場として親しまれる。

味鋺散策 味鋺は、江戸時代、小牧街道(稲置街道の一部)沿いに発達した村。当時は農家や小商いの家が多く、今も旧街道には、昔の面影を残す家並みが見られる。

大我麻・如意散策 鎌倉時代まで大井村であったが、度々の水難から、長母寺の無住国師に頼んで地名を仏語から選び、如意とあらためた。

味美古墳群(春日井市) 名古屋市北区から春日井市西部の古墳群はかつて180もあったとされるが、ほとんど滅失しており、現在は味美古墳群として4基が存在するだけとなった。この地が太古から開かれ、連綿と続けられた文化の痕跡を消滅させた、明治以降の文化財に関するこの地方の自治体の失政は、はからずも我々が蒙る形となった。