黒川及び御用水跡街園周辺は、春は桜並木で色鮮やかに彩られ、夏は涼を求める人々の憩いの場となっている。「黒川」を開削した黒川治愿氏にちなんで名づけられました。
金城橋からの堀川(黒川)
黒川治愿は明治時代、中部地方の数多くの河川工事に関わった人物。御用水は江戸時代からあったものの堀留に架かる朝日橋までしか船が行き来できませんでした。明治9年、治愿が御用水とほぼ平行に走る黒川を作ったことで犬山まで船が通行可能になり、名古屋の産業は大いに発展したといわれています。

多奈波太神社(たなばた):旧七夕町で織姫様が機織りの神様として祭られています。
祭神:天之多奈波太姫命、天照皇大神、應神天皇、大山津見命、大己貴命、素盞嗚神。延喜式神名帳に山田之郡多奈波太乃神社、本国帳に正四位下棚機天神とあり、大正11年指定村社、昭和39年社殿造営、昭和56年7級社に昇格。
西区上小田井の星神社(牽牛・織女を祀る)と七夕祭りの神事が残っている。
むかしむかし、尾張の国の庄内川をはさんで、北には小田井(おたい)の里・南には田幡(たばた)の里二つの村がありました。
 南の田幡の里には昼は田畑の仕事・夜になれば機織と働き者の美しい娘がおりました。北の小田井の里には田畑の事なら誰にも負けない元気な若者がおりました。
 ある年の盆(旧暦8月15日)の事でありました。小田井の里の若者達が、田幡の里の盆踊りに招かれたので、庄内川の稲生(いのう)の渡しを舟で渡りました。
 その年の盆踊りはとてもにぎやかになりました。そしてその盆踊りの時に若者は娘を見るなり好きになってしまったのです。娘の方も若者が忘れられなくなっておりました。さて盆踊りも夜が明ける頃には終わり、小田井の里の若者達は稲生の渡しを渡り帰りました。 盆が過ぎても二人は七日に一度逢っておりました。そして段々逢う日も短くなり三日に一度は逢っておりました。夜には渡しの舟が出ないので、若者は泳いで行きました。娘は岸辺で明かりを持って待っておりました。
 秋の祭りの頃になりました。若者は父親に「田幡の里の娘が嫁に欲しい」と言いました。父親はもう分かっておりましたので、笑ってうなづきました。若者はもう、いても立ってもいられなくなりなしたが、4・5日前から大雨が降って、渡し舟は出ていません。
 若者は水かさが増し、流れが速くなっている川を泳ぎ始めました。そこに浮き木が流れてきて若者の頭にあたってしまったのです。次の日、小田井の里の者が総出で若者を探しましたが見つかりませんでした。
 三日後、若者は遺体で見つかりました。里のでは葬儀をし、野辺送りも終わっり、木枯らしが吹く季節になった頃、田幡の里の娘も命を絶ちました。
 里の人達は冬の空に光る二つの星を見て「あの若者と娘が星になったのだな」と語り合ったと言う事です。

名城二町目の深島神社:ドロボー猫を見つけました。
大杉の八王子神社
昔、この辺りは、 渡来系の人々が住んでいたのではといわれており、かって、百済神社(明治五年)と命名されたが、明治42年、八王子神社と改名された。八王子とは、素戔鳴命の御子の五男三女にちなんで名付けられたもので、朝鮮ゆかりの名では都合が悪いとの理由からと思われる。
中杉八幡社:古い町並に残る立派な鎮守様です。

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