味鋺は、江戸時代、小牧街道(稲置街道の一部)沿いに発達した村。当時は農家や小商いの家が多く、今も旧街道には、昔の面影を残す家並みが見られる。
味鋺神社の境内に稲置街道の石橋・清正橋が保存されている。
味鋺神社
祭神 は宇麻志麻治命、日本武命、天照大神、別雷神、天児屋根命、品陀別命、武甕槌命 、もと六所明神と言う。 名古屋市にあるこの神社については由緒を書いた物は置かれていない。文化財への行政の姿勢の差を感じる。この地域は味鋺(あじま)とか味美(あじよし)と呼ばれ、物部氏の祖・可美真手命(うましまじ)の名にちなんでいる。可美真手命は饒速日命の御子。神武の御代、宇麻志麻治命は物部一族を率いて尾張国に居住したと伝えられている。大和朝廷の権力が及ぶにあたって、物部氏族は平地から山手の土岐の方に追われたとされている。
稲置(いなぎ)街道について
徳川義直(初代尾張藩主)が家老の成瀬隼人正(犬山城主)に命じて作らせた名古屋から犬山までの街道で(当時犬山のことを稲木又は稲置といったことから「稲置(いなぎ)街道」と言われるようになった。)、政治的にも経済的にも南北幹線道路で中山道、木曾街道、美濃に通じ、当時非常に繁華な街道であった。当時の面影や住居、遺跡、商家等が残っており、名古屋の清水口から成願寺・味鋺・春日井・小牧を経由、犬山の「からくり会館」・「犬山城」・「稲木神社」まで旧街道を散策するのもよい。

天永寺護国院
味鏡山と号し、天平年間(729〜749)に、僧行基が創建した真言宗の寺だある。薬師寺とも呼ばれ、天暦二年(948)庄内川の大洪水に遭い哀微したが、天永二年(1111)、西弥上人によって再興され、今の寺名となった本尊の薬師如来座像は行基の作と伝えられており、宝石は銅鏡、石棺であり、文化財に指定されている。絹本著色の絵画「千手観音二十八部集、尊勝種子曼茶羅図(名古屋市重要文化財)」が残され、昭和53年建立の鉄筋3階建の観音同内に保存されている。

首切り地蔵
曲水宴を100m程北に進んだ左手角に、約90cmの地蔵尊が祠の中に安置されている。郷士一之曾五左衛門という者の邪剣に殺されかかったある女性の身代わりになったと伝えられ、胴が右上から左下にかけて、斜目に二分されている。
東八龍神社と西八龍神社
昔この社の祭礼に背いた知識人の家が落雷で燃えてしまったという伝説があり、雷除けの神社として親しまれる。境内には「龍の木」という落雷によって立ち枯れたご神木がある。

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