志賀の地は、文字の使用もなかった弥生前期には、このあたりまで入海で九州の弥生人がこの地に定住し、稲作農耕文化を東海以東へ拡めた基となった。この中核は北九州「志賀の」安曇部族であろう。即ち故郷九州「志賀」には祖神、海神の裔「玉依比売命」を祀り「海(わた)神社」と称した。
志賀公園
志賀の地に邸を構えた平手政秀は、天文二十一年荒廃した綿神社の社殿を再興し鏡と手彫りの狛犬を奉納して主君信長の奇行・粗暴の平癒を祈ったと伝えられている。政秀の祈願むなしく、翌天文二十二年遂に諌死するに至った。その後信長の態度一変し天下平定の基を開いたのも実に政秀の誠忠に依る。(信長も槍先一穂奉納)
広大な敷地に落ち着いた日本庭園が保存されており、グラウンドではお年寄りのゲームが白熱していた。

綿(わた)神社
本国帳:綿は海の仮名にて、昔はこのあたりまで入海にて、さる神社おあしまししなりす。と記されている。
 綿神社由緒(板書)によると弥生前期、九州の弥生人がこの地に定住、稲作を伝えた。その中核は北九州の志賀の安曇族であろう。祖神、海神の裔玉依比売命を合祀った。祭神は玉依比売(たまよりびめ)命と応神天皇。玉依比売は神武天皇の母。
延喜式神明帳に「山田郡綿神社」とある。綿とは、本国帳に「従三位綿天神と見えたり。綿は海のかり字にて、海童神(わだつみのかみ)を祭る。」と記され、また、祭神の一柱である玉依比売命が海神綿津見神の女であることから由来している。
 この志賀の地に邸を構えた平手政秀は、荒廃した社殿を再興し鏡と手彫りの狛犬を奉納して主君信長の奇行・粗暴の平癒を祈ったと伝えられている。また、尾張徳川家も代々当社を崇敬することが厚かった。

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