天白のこと
天白区の謂れとなった天白社は、天白、天伯、天獏、天縛、天魄の字を当て、その社は川の近辺、橋の袂に祀られることが多く、水の神、農耕神ともいわれていました。伊勢の天白社の祭神は、土着の麻績(おみ)の神(麻績とは機織の神)、あるいは天の白羽神を祀ることが多く、帛は、神に供える絹の織物のことで、それが天白となったのだという説もあります。
この天白信仰を各地に広めたのは、伊勢の御師(神人)が、御札を配り、神楽歌を歌って各地に流布させたようで、吉沢の天白社は、北伊勢に多い土着の神、麻績天長白羽神(ながしらはねのみこと)で長白羽命は、織物の神様とされています。長は糸または織物の長さ、白は白色を意味し、羽は羽二重を表すといわれています。田光の天白明神も、土着の神、多比理伎志摩流美神を、天白さんと親しみをこめてよんでいたようであります。
田光では、八風峠に伊勢津彦を祀っていました。この神は、伊勢の土着の国土神で、大和政権に伊勢を追われ、八風を巻き起こして東国へ逃散したと伝えられています。この伊勢津彦も、先の麻績氏も共に伊勢から東国へと移動して、その道筋は尾張、三河、遠江、ここから天竜川沿いの伊那、諏訪、深志(松本平)、善光寺平、佐久平へと移って行ったと伝えられ、この経路は、山国でありながら稲作が早くからはじめられ、麻を作り布を織る技術も進んでいたといわれています。
それに、信州の松本市や長野市には伊勢町という町名の多いことと、この天白信仰の天白社の分布も信州に三二九を数えるほどで、東海、中部地方では一番であります。
これは伊勢の麻績氏の一族が機織りの技術を携え、一方の伊勢津彦は稲作の技術集団を引き連れて、天竜川沿いに伊那谷を北へのぼり棚田を開き、盆地を開拓して信濃の米作りの本になったのだと思われます。
三重県菰野町の歴史より抜粋
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