御幸山周辺 八事の交差点から、地下鉄塩釜口駅の南西、塩竈神社を抱き込むような形で御幸山がある。春の桜、秋の紅葉の美しさが人々の心をとらえる。山からの夜景は、宝石をちりばめたように美しい。 閑静な「旧道」を行くと、飯田街道に出合う。「五社宮」、「高照寺」への参道は、かつて、祭りの日には大賑わいであったという。「仏地院」から桜や藤の花が咲く頃は特に美しい、安産と子どもの守護神として知られる「塩竈神社」・「御幸山公園」・「植田神社」まで、八事の丘陵を一回りします。

島田周辺 天白区に島田という地があり、往古モ嶋つ田モと呼ばれ嶋田臣と称された氏族がいたが尾張氏により海部郡の方へ駆逐されたとの伝えがある。島田五丁目に昔の城跡の一部を残した小高い丘がある。室町幕府成立のころ、尾張、遠江、越前の三国の守護であり、また管領家であった斯波高経(しばたかつね)が鎌倉街道の要所として、この地に築城したことに始まる。東西70m、南北180mの規模があったが、今では、本丸の部分に神社がある。代々の城主は斯波氏の一族であるが牧氏を名のっている。

野並周辺 梅野公園の東にある墓地のうち、南側の一段高<なっているところが千秋家の墓である。信長により野並はじめ三ヵ村の所領をいただいた旧熱田大神宮の大宮司千秋家代々並びにその家臣の墓標が建てられていた。野並八劔社の裏の細い曲線を描く小道が、昔の鎌倉街道(上野道)の名残である。この街道は整理された道路であったのではなく、多くの旅人が歩いて、そこが道になったものである。

農業センター 天白区の東部、南の荒池から農業センターは都市農業としての本市農業の振興を図るため、昭和40年に開設された。農業技術の研究指導を行うとともに、花・野菜の栽培、名古屋コーチン・梅山豚(メイシャントン)の飼育のほか、園芸教育・竹の子狩りが開催されるなど、市民が自然に親しむことのできる憩いの場所となっている

天白区の歴史ロマン
針名神社
秋葉山麓にあるこの神社は、延喜式内社で尾治(張)氏の末えい尾治の針名根連の命を祀る神社である。針名根の命は、当時の尾張の国を支配した。併神として、大巳貴命、少彦名命を祀っている。なお応神天皇の八幡社を明治42年に合祀している。創建は、延喜年間(900年頃)作成の『延喜神名帳』に、従三位針名天神と記載されているところから、それ以前と思われる。その後、慶長年間(1612年頃)に、約800m北の元郷から部落と共に移された。また、ちょうちんともしの行事が、昭和57年、50年ぶりに復活した。因みに、犬山市の針綱神社は、針名根の命とその父君の尾綱根の命を祀っている。

天白川 2000年9月11日の東海豪雨は記憶に新しいが、普段は四季を通して区民の憩いの場所でもある。そんな天白川の穏やかな一日をスケッチしました。

天白のこと

 天白区の謂れとなった天白社は、天白、天伯、天獏、天縛、天魄の字を当て、その社は川の近辺、橋の袂に祀られることが多く、水の神、農耕神ともいわれていました。伊勢の天白社の祭神は、土着の麻績(おみ)の神(麻績とは機織の神)、あるいは天の白羽神を祀ることが多く、帛は、神に供える絹の織物のことで、それが天白となったのだという説もあります。

 この天白信仰を各地に広めたのは、伊勢の御師(神人)が、御札を配り、神楽歌を歌って各地に流布させたようで、吉沢の天白社は、北伊勢に多い土着の神、麻績天長白羽神(ながしらはねのみこと)で長白羽命は、織物の神様とされています。長は糸または織物の長さ、白は白色を意味し、羽は羽二重を表すといわれています。田光の天白明神も、土着の神、多比理伎志摩流美神を、天白さんと親しみをこめてよんでいたようであります。

 田光では、八風峠に伊勢津彦を祀っていました。この神は、伊勢の土着の国土神で、大和政権に伊勢を追われ、八風を巻き起こして東国へ逃散したと伝えられています。この伊勢津彦も、先の麻績氏も共に伊勢から東国へと移動して、その道筋は尾張、三河、遠江、ここから天竜川沿いの伊那、諏訪、深志(松本平)、善光寺平、佐久平へと移って行ったと伝えられ、この経路は、山国でありながら稲作が早くからはじめられ、麻を作り布を織る技術も進んでいたといわれています。

 それに、信州の松本市や長野市には伊勢町という町名の多いことと、この天白信仰の天白社の分布も信州に三二九を数えるほどで、東海、中部地方では一番であります。

 これは伊勢の麻績氏の一族が機織りの技術を携え、一方の伊勢津彦は稲作の技術集団を引き連れて、天竜川沿いに伊那谷を北へのぼり棚田を開き、盆地を開拓して信濃の米作りの本になったのだと思われます。

三重県菰野町の歴史より抜粋