尾張氏 |
古墳時代の海岸線は、現在の愛知県名古屋市の伊勢湾に面した海岸線と大幅に異なり、はるか北に位置したようです。高台以外の名古屋は海の中といえます。出土した土器の分布を見ますと、一宮・津島・犬山あたりが多くなっております。このことからすでに石器時代から東部丘陵地帯に人が居住し、縄文時代には尾張北部を中心に氏族が形成されていたようです。尾張氏の本拠(本貫)がどこにあったかは本居宣長の頃から幾多の論争があり、大和葛城説、吉備播磨説などさまざまです。ここでは加藤宏氏の「古代尾張氏の足跡と尾張国の式内社」からの説を使わせて頂きます。
尾張、三河、伊勢、志摩の国の伊勢湾・三河湾・熊野灘の沿岸部は、縄文時代から弥生時代にかけて海人族による集落が形成された地区です。東南アジア、中国、朝鮮半島、九州などから海上を小舟で時には数人ぐらいという少人数で、九死に一生を得てやっと漂着し住み着いたのが海人ということです。やがてこの海人の人口が増え、漁業・稲作の生産性も高まり、氏族が形成されていったわけです。
尾張の地には海人以外の先住民で尾張東部の丹羽地方に勢力を振るった丹羽氏と物部氏がありました。物部氏は皆さんよく御存知の大和が本拠で氏神の石上神社は大和朝廷の武器庫→神庫と呼ばれていました。尾張物部氏にも武器・農器具を納めた倉があってこれが高牟神社となりました。現在の千種区・東区・北区の南部・守山区の西部・春日井の西部・海部郡(甚目寺・佐織・佐屋)が支配地とされます。古事記の撰者、太安万侶は大和国の多氏の一族ですが、丹羽氏も多氏の分族とみられています。氏族の始祖は大荒田命で大県神社に祀られています。また、尾張国の二の宮でもあります。 |
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高牟神社略記
千種区今池1-4-18
第十三代成務天皇(一三一年)の御代の鎮座にして、第五十六代清和天皇(八九五年)の御時御造営に際し勅して応神天皇を配祀せしめられる。
応神天皇御神像は束帯乗船の香木座像で世に出船八幡とも申され俗に古井八幡と称せられる。 古代のこの地は物部集落でこのお宮も武器庫の跡とされる。 |
海人は北九州地方から弥生時代前期に稲作・金属器をたずさえた阿曇氏系の氏族ではないかと言う説もあります。(現愛知県海部郡佐織町大字諸桑の諸鍬<モロクワ>神社の近くから楠の丸太の大舟が発掘されています。)同族ではありますが尾張の海人は2派に別れて発達しました。
一つは清洲町朝日に拠点を持ち、木曽川沿いに中島郡北部に進出した一族で真清田神社のあたりです。やがて南部に進出し、多氏系の丹羽氏と融合。一宮の全域と中島郡北部を支配します。
もう一つは愛智郡に本拠を置いた海人で、名古屋港沿岸から名古屋東部丘陵、長久手、山田郡東部あたりに勢力を伸ばします。そして、現在の小牧市大字小針の周辺で先述の海人と連合し小針の地を開拓し尾張氏を名乗ります。また、ここが尾張国名の発称の地とされています。(尾張神社がありますが鳥居の傍らの石碑に『尾張名称発源之地』と刻まれている為にそう説かれています) |
尾張氏は大和朝廷成立の頃からその前身の海人氏族が朝廷に臣従し、朝廷譜代の豪族の地位を確保していました。また、一族から高妃を入内させ、朝廷と外戚関係を結び、大臣など朝廷の要職に人材を送り込み当時の国政にも発言力を大きくしていったようです。尾張国を支配下に置いた尾張氏は濃尾平野の開拓に力を入れ、経済力・政治力・軍事力を増強し、本拠地を小針から発祥の地とも言うべき現名古屋市緑区大高町の氷上姉子神社の近くに移しました。この地は朝廷の東日本平定の総司令部とも考えられる前線基地です。 |
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尾張氏の始祖は、天火明命<アメノホアカリノミコト>で、その11代目が 小止与命<オトヨノミコト>です。彼が尾張国初代の尾張国造に任命されます。この子が建稲種命<タケイナダネノミコト>で、日本武尊<ヤマトタケル>の東征に自ら副将軍として従軍し、妹の宮簀姫命<ミヤズヒメノミコト>と日本武尊のロマンスも伝承されています。建稲種尊の妃は、丹羽氏の大荒田命<オオアラタノミコト>の娘、玉姫です。
天火明命13世の孫、尻綱根命<シリツナネノミコト>は、応神天皇の大臣となり、妹は五百城入彦命<イオキイリヒコノミコト>の皇紀となり、品陀真若王<ホンダマワカノミコト>を生みます。その次の妹、金田屋野姫命<カネタヤネノヒメノミコト>は、甥の品陀真若王の妃となり三女王<ひめみこ>を産みます。この3人は応神天皇の后妃となり、仁徳天皇が生まれます。尻綱根命の子、オオシムラジは仁徳天皇の大臣になります。尾治知々古連は履中天皇の功能臣となり、尾治坂合連はイン恭天皇の寵臣となります。
皇位継承の三種の神器の一つ、草薙剣を祭祀する地を熱田に決めた時期は尾張氏が大和朝廷の外戚家として全盛を極めた頃で5世紀末から6世紀当初と推定されます。
絶頂期は尾張連草香の娘、目子媛<メコヒメ>が継体天皇の皇妃になり、安閑天皇と宣化天皇を生んだ頃だそうです。 |