約7000年前の縄文海進(海面が7メートルも上昇)によって、入り江となり、これを年魚市潟(あゆちがた)といった。この年魚市潟も長年月の間に、雨水を集めた川により土砂が運ばれ沖積地となり、現在の天白区が出来上がったのである。天白川の名は天白橋付近に天白大明神が祀ってあったのがその由来という。
天白神はどんな神か。この神の祀られているところは河川の下流(天竜川、利根川流域)や海岸地方(波切)に多い。また、信州諏訪地方にも多い。このために河川の暴流を防いで田畑を守る神であり、また海道を旅する人を怒涛から守る神ではなかろうかと言われている。天白神(明神)については未だ定説はない。
 天白川は低湿地のため、そこに蘆萩が生い茂り、堤防も貧弱で、洪水のたびごとに天白川は流路を替えていた。南区の天白川流域一帯は古代あゆち潟の一部で、堤防が整えられるのは信長の天正十五年(1587)頃から家康の慶長九年(1604)東海道を大改修した頃のようだ。後に天白川口付近に伝馬新田(寛文十二年・1672年)をはじめとして、新田が海側へつくられる度に堤防は延長された。
 
天白橋から 植田川との合流地点

島田橋から:園児が走り回っていた。2000年9月11日の東海豪雨では、天白川流域に大きな被害をもたらしました。復旧工事はされていますが、天白川から水害の不安を解消する万全の対策が望まれます。市民の心を癒してくれる天白川であってほしい。
菅田橋から:洪水時に浸水停止したポンプ場の改修工事です。
平子橋から:鳥が飛び、魚がはね、とても穏やかな天白川でした。
天白川と鳴海の扇川が合流して、西進するところに土砂が堆積して、牛毛荒井の村々を造った。しかしここは低地の為、台風時に浸水して作物が皆無になる。そのため尾張藩への年貢も納まらないことがしばしばあった。そこで藩はその救済のため、天白川を野並の笹原で西流させて、山崎川に落としたのである。しかし14年間に17回の堤防の決壊があり、田畑が流されたので、井戸田村では暴動がおきた。そのため、また藩は天白川を元の川筋に戻したのである。天白川が山崎川に合流していた14年間、元の天白川原にできた新田を「天白古川新田」と言った。現在野並にその新田の名残として「古川」という名の川がある。(郷下川あたりと思われる)
昨年9月11日の東海豪雨でこの地域は大きな被害を被ったが、歴史的に見てもこの地域が水害を受けやすい地形である事がうかがえる。
名古屋市における大雨の記録では1986年から2000年までの約100年間に、1時間に90ミリ以上の大雨が3回、天白川の限界といわれる50ミリ以上が9回もありました。復旧工事はされていますが、天白川から水害の不安を解消する万全の対策が望まれます。
郷下川
藤川
天白川本流