草薙の剣
 高天原でのスサノオの荒々しい行動は姉の天照大神を天岩戸に隠れさせるという事態を招き、そのあとスサノオは髪を抜かれ、手足の爪を抜かれて追放された。

 スサノオは出雲の国の簸の川上に到着し、うちひしがれる老翁と老婆と少女に出会う。ヤマタノオロチが原因と知り、大蛇に酒を飲ませるなどの計略をめぐらし、十握剣(とつかのつるぎ)で寸断したところ尾を切った時に剣の刃先が少し欠けた。そこで尾を輪切りにすると中に一つの剣があった。これが草薙剣で一書では、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)の名も伝えられている。大蛇がいる場所はいつも雲気があったからその名がついた。名の由来について水野祐氏は「霊剣が大蛇の尾から出たという連想から、蛇は龍であり、龍は水神である。龍神は常に雲を呼び集めるので、大蛇の尾より出現したこの霊剣は龍神の霊力を秘めた剣であるからムラクモという名称が起こった」とした。

 これをスサノオは神剣として天照大神に献上した。
 スサノオが天照大神に奉った草薙剣は、その後しばらく記紀には姿をあらわさないが、日本武尊が「東夷の叛」の平定を父景行天皇から命じられた際、本来のルートから外れて伊勢神宮を拝み、天照大神(八咫鏡)を祀る叔母の倭姫命(やまとひめのみこと)から草薙剣を授けられ、東国へ携えて出征した。この記事は、ある時期三種の神器のうち八咫鏡と草薙剣が伊勢神宮にあり、倭姫命によって皇位継承者として認められたとする伝承の存在を示している。

 日本武尊の東征物語では、焼津で焼き討ちにあった時に天群雲御剣で草を薙いで窮地を脱したという有名な物語があります。〈天群雲御剣は、草を薙ぎって災難を逃れた時、草薙の剣と追銘されました〉。東征は窮地の連続でした。走水神の折には妻を日本武尊を慕ってついてきた弟橘比売(オトタチバナヒメ)も失ってしまいます。愛する妻である弟橘比売が、その命を犠牲としたとき「あづまはや」と心がはちきれんばかりに泣き叫びました。そこから、東国を、【あづま】と呼ぶようになりました。

 古事記では、日本武尊は草薙剣を受け取った後、尾張国へ行き尾張国造の祖ミヤズヒメの家に滞在した。このことは、当時すでに尾張王朝が成立しており、日本武尊は尾張氏に入婿し、尾張勢力を利用して即位を宣言した可能性が有る。熱田神宮の縁起では、記紀には出てこないミヤズヒメの兄である「武稲種」(たけいなだね)という尾張氏の祖先がタケルの東国征伐に随行している。姫とは東国平定の後、尾張に戻り結婚し長く滞在した。

 その後、不思議なことに大切な草薙剣をミヤズヒメのもとにおいて、近江・伊吹山の神を鎮めに行き、敗北して命を落す。

尾張氏の本貫地・緑区大高町の氷上姉子神社と宮簀媛の住居跡
 書紀に奇妙な記録がある。天智天皇7年(668)は中大兄が即位した年

 「沙門道行、草薙剣を盗みて新羅に逃げ向く。而して中路にて雨風荒れ、迷いて帰る」という記事である


 この僧は愛知県知多市の名刹・法海寺の開基として信仰を集め、境内からは弥生土器以来の遺物が出土しており、さらに7世紀末頃からの瓦も出土することなどから天武天皇の頃に大伽藍が営まれていたことが分かる。『法海寺略由緒』によると「むかし、新羅の明信王の子、道行法師が父の命を受け我が国に渡来し、熱田の宝剣を盗もうとしたが、事が露顕して星崎の浦にある土牢に捕らえられた」ことが記されている。星崎とは熱田の東南にあたり年魚市潟(あゆちがた)の渡船場でもあった。

 道行法師は囚人となったが、修行を積んだ高僧であることが認められ、天智天皇が病のおり加持法を執り行ったところ天皇の病が治り、薬師如来を本尊とする法海寺の基礎ができたという。このことから大和朝廷による神剣奪取の陰謀が露見する。
 朱鳥(あけみどり)元年(686)に、天武天皇の病が重くなったので「天皇の病を卜うに、草薙剣に祟れり。即日に、尾張国の熱田社に送り置く」

 この記事は、長年にわたって草薙剣を熱田社に戻さず、宮中においていたことに対する非難や批判があったことを示していると思える。宝剣が盗まれてから宮中に置かれ、さらに熱田社に返されるまでの間の天武天皇4年(675)土左大神(高知市一宮にある土佐神社)が神刀一口を天皇に奉っている。(紀)
熱田神宮清雪門(せいせつもん)
天智天皇7年(668)新羅の僧が神剣を盗み出し、この門を通ったといわれ、以来不吉の門として忌まれたとも、神剣還座の際、門を閉ざして再び皇居へ還ることのないようにしたものとも伝えられています。以来、開かずの門である。
 戦後まもなく後藤守一氏は「三種の神器の考古学的検討」という論文を発表されたが、この中に『玉籤集裏書』として残された熱田の社家4、5人がひそかにご神体である草薙剣を見た時(江戸時代)の記録を紹介された。この見聞は事実としても、神官たちが隠し火によりおそるおそる窺い見たもので、どれだけ詳細かつ冷静に観察できたかは疑わしい。

 このご神体は、5尺(約1.5m )ばかりの木の箱に入っていて、木箱の中に石の箱があった。二つの箱の間には赤土がしっかり詰めてあった。さらに石の箱の中に樟の箱があって、その中にご神体が入っていた。そして石箱と樟の箱の間も同じように「赤土にてよくつつめり」となっていた
 中には長さが2尺7、8寸(81〜84センチ)で、刃先が菖蒲の葉のようになり、中ほどはむくりと厚みがあり、全体が白い色をした剣があった。後藤氏は、この見聞によって銅剣と考えたが、当時の主として北部九州の弥生遺跡で見つかった銅剣に比べると長大に過ぎるという点で躊躇されたようだ。