尾張氏の本拠地である緑区大高町火上山。この地は昔、火上の里(金属生産の山の意味)とよばれていましたが、永徳3年(1382)、この社が火災にあったので火の字をきらって氷上とし、火高を大高にあらためたとされています。
氷上姉子神社:尾張氏の本拠地である緑区大高町火上山。
日本武尊(やまとたけるのみこと)のお妃、宮簀媛命(みやすひめのみこと)をお祀りする。古代は氷上山のふもとまで海岸で、熱田とは海上交通で結ばれていた。
 日本武尊の死後、火上の里に留め置かれた草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)を、かねて一族が祭祀を行う場所としていた吾湯市の熱田にお祀りしました。いわば、現在の隆盛を誇る熱田神宮の御創建に最も縁の深い社であります。
当社は仲哀天皇4年、尾張氏の館趾(現在の末社 元宮)に創建、持統天皇4年(690)に現在地に遷座せられました。現在の本殿は明治26年改造以前の別宮八剣宮の本殿を移築したものです。

大高城跡:「夏草や 兵どもが 夢の跡」思わずこの句をくちずさむ。思ったより広大な城であった。
織田信長の父信秀の死後、織田方の鳴海城主山口左馬介は、寝返って今川勢に加担、大高城を奪取。信長は計略で義元に左馬介を切腹 させた。信長は周辺に鷲津砦や丸根砦を築いて大高城孤立作戦を立てた。
大高城は鳴海城と共に今川方の最前線基地となり、そこへ援軍を送るという重大な役目を果した松平元康(徳川家康)は、義元から、これまで鵜殿長照が守っていた大高城をもらった。
“桶狭間の戦い”で今川方は総崩れとなり義元は討死。大高城にいた元康は、刈谷城主水野氏(元康の実母お大の方の実家)から義元の死を知り、本拠岡崎城へと帰ります。岡崎城にいた今川一門の将兵は次々と城を出て駿河へ帰っていった。やがて元康は義元を継いだ今川氏真を見限り、信長と同盟することによって、家康は躍進の基を築いてゆく…。
鷲津砦方面
丸根砦方面

酒蔵(さかぐら)
大高城下、大高川の左岸(南方向)に煙突や黒囲いの酒蔵の町並みがある。大高町の酒造の起源は不詳だが、かなり古くからあったらしい。現在は3軒で清酒醸造が行われている。