尾張や美濃は古来より物部氏にゆかりが多い土地であり、天火明命の子・宇摩志麻遅尊は、物部の兵を率いて、義弟・天之香山尊(尾張氏の祖)と共に、尾張・美濃・越を平定し、義弟・天之香山尊を、新潟県の弥彦神社に残した後、更に播磨・丹波を経て、石見国に入り、島根県大田市にある現在の物部神社で崩じられたとされています。
物部神社
祭神
宇麻志麻遲命
摂社 物部白龍社(地主神)
明治初年に式内社の物部神社と認められた。 神武天皇が当地を平定した時に見付けた石を国の鎮めとしたと伝わる。 俗に石神神社、山神、石神とも呼ばれる。 祭神の宇麻志麻遲命は饒速日命の御子で、物部氏の祖神とされ、神武東遷の時、長髄彦を討って神武に従い、後に東海から陸奥方面を制圧して、最後に石見に移って物部神社に鎮まったとも伝えられている。多くの物部神社が存在していたが、現在は合祀されたりして、その名を留めている神社は尾張では当社、美濃では本巣方面に2座残る。千種区の高牟神社は物部氏の武器庫跡といわれている。
都会の真ん中に位置する。社地は狭い上に半分は石神公園になっている。木々は多く、ケヤキの大木がある。

六所神杜
矢田村の氏神で安産の神様として信仰を集める。毎年2月26日に「かっちん玉祭」が行われ、竹の先に白・赤・青で彩られた練りあめ「かっちん玉」を求める参拝客でにぎわう。
末社「龍神社」は中日ドラゴンズの優勝祈願社として監督はじめ選手一同が参拝する。名古屋ドームの西側にある。

白山社:天保八年(1837年)の暴風により倒壊した祠を再建した木札が見つかった。老中・水野忠邦の天保の改革の時期で、1832年〜1837年の天保大飢饉、大塩平八郎の乱、米船モリソン号打ち払い事件と騒然としていた。庶民は一日も早く平穏な日々の到来を祈願したことでしょう。

 弘文元年(六七二)に起こった壬申の乱のとき、大海人皇子一行は大急ぎで吉野宮を発ち、夜を日についで宇陀、隠郡、伊賀郡家(四日市付近)、積殖(つむえ:伊賀町柘植)、鈴鹿郡家と来て、川曲(鈴鹿市)でしばし休息する。そして、三重郡家から迹太川(朝明川)に来て、天照大神(のちの伊勢神宮)を遥拝した。桑名郡家(桑名市)まで来て、ほぼ二昼夜の行軍を終えて泊まる。その後、不破郡家(垂井町付近)、野上(関ケ原野上)を経て不破関での決戦に向った。桑名へ到達してからの行軍路は、上述の西側の海岸線を北上したものと思われる。大海人が不破郡家に来ると、初代尾張国司守の小子部連(ちいさこべむらじ)?鉤(さびち)が二万の軍兵を連れて参加した。
 主戦場は近江であったが、戦いは美濃から尾張におよび、名古屋山東出口、山口においても激戦がおこなわれ大海人軍が勝利する。この戦いのあとが橦木町三丁目の北側の住宅に「おとも塚」として現存する。
 各地で行われた戦闘は海人側の勝利となり大友皇子は近江の国で自害し、およそ一ヶ月にわたった戦乱も終りを告げた。大海人側を勝利に導くのに力のあった?鉤は、何故か山に隠れて自殺してしまった。古代史の謎の一つである。

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