佐屋街道  江戸時代、東海道を旅する人が熱田の渡しからの海路を避けて通った脇街道で、宮から北へ上り尾頭橋から烏森・岩塚(中村区)を経て、万場を船で渡り、千音寺から西に延びて海部郡大治町へと続き、佐屋からは木曽川を桑名まで船で下る穏やかな旅路である。街道沿いには火の見櫓、低い二階家、黒壁の家、高く土盛りした民家が並び、懐かしい日本の昔の雰囲気が漂う。

荒子観音と戦国ロマン
「前田利家」生誕地
 尾張四観音と言われ古くから人々の信仰を集めて来ました。四観音の発祥は400年ほど前、家康が名古屋城の築城の際、城下町の鬼門の方角にあった四寺院を「名古屋城鎮護」として定めたことに始まる。また、軍事上、侵略から城を守る陣地、城下への出入りの管理、庶民を散財させる場等々重要な役割を担っていました。
 戦国武将・前田利家の生地は尾張国前田村の荒子城、庄内川を西に渡ると前田一族の本拠地があり、正室「まつ」は沖ノ島(愛知県七宝町)で生まれた。

中川運河周辺散策  中川運河の前身は中川と言い、下流は川幅が広く船の往来も多かった。明治文明開化とともに名古屋は産業都市に変わり、鉄道も敷設され交通の中心地になりました。1930年(昭和5年)、名古屋城築城以来の堀川と、港と笹島の貨物駅を結ぶ中川運河は、東洋一の大運河として完成しました。以後運河は一大貨物輸送路としてまた市枢要部の排水路として市民生活を支えることになりました。

新田開発「鬼頭景義」 為朝の22代子孫で尾頭、鬼頭姓のルーツ。江戸の初期に用水掘削と広範な開拓事業を私財を投じて成し遂げた偉人の終焉の地「空雲寺」の見事なクロマツを紹介します。

平安ロマン「一楊庄」 延喜の頃の新開地、一楊庄(ひとつやなぎしょう)は烏森、治田(八田)、荒子、高畑、萬町、野田、厨郷(中郷)の七村は伊勢神宮の神戸御厨で鎌倉以後独立した。戦国の後は武家の領地となるが、今もって神明の社をお祭りしている。

戸田散策  尾張国海東郡富田村戸田には一之割から五之割まであって、それぞれ八幡社、天満宮、鈴宮社、白山社、神明社が祭られ、神社には山車とからくり人形が保存されています。戸田川は千音寺付近に源を発し、港区内で日光川に流入しています。川沿いの町並には水郷の趣きが残っています。