前田利家とまつ
利家の生地は尾張・荒子(あらこ)城(いまの名古屋市中川区荒子4丁目)、まつは沖ノ島(愛知県七宝(しっぽう)町)で生まれたとされる。前田利家は数えの15才で、当時「うつけ者」と評されていた織田信長に仕官した。利家は4男坊で尾張の村落領主の家を継げず、自分の才覚で生きるしかないのである。仕官を巡るかすかな手掛かりは、「利家さま、お若き時はかぶき御人」とする記録である。
「かぶき(傾奇)・ばさら(婆娑羅)」とは常軌を逸した行為、風俗などを指す。佐々木道誉などは婆娑羅大名として有名である。時代の常識を砕こうとする若者のエネルギーの表れといえようか。又左衛門利家は派手な格好に加え、途方もない長さの槍を携えて往来をのし歩き、「又左の槍」と、ひんしゅくを買ったという逸話を残す。「かぶきの又左」には「うつけの殿」が似合いである。まつは、戦乱で父を失い、母が再婚したために、利家が仕官する1年前から縁続きの前田の家で養育されていた。
荒子城跡には現在、小さな神社が建っており、地元の人には約200メートル離れた荒子観音の方が有名である。
前田氏初期の歴史は不明なところが多く、利家の父利昌以前については不明である。前田氏は菅原道真の後裔、菅原氏を称しているが、歴史的事実とはいいがたい。前田氏の発祥地を尾張国前田村とする説もあるが、元来の発祥地は美濃国安八郡前田である。のち尾張の荒子に移ったもので、前田から荒子はの移住がいつごろなのかは明かにされていない。
庄内川の「新前田橋」を西に渡る。一帯は「前田西町」と呼ばれ、かつて前田一族の本拠地である速念寺がある。ここを利家生誕の地とする説もある。さらに北西へ約3キロ、名古屋市域を出ると「七宝町沖之島」に着く。宅地化が進むありふれた街の光景だ。かつての水郷地帯の名残をとどめるような水路が所々に残っている。利家もまつの家も数代さかのぼれば出自は定かではない。戦国の世は、二人のような若者たちが氏素性にかかわりなく自分の才能だけを頼りに切り開いた新しい時代であった。
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