前田利家は1537年(天文6年)、尾張国荒子村(愛知県名古屋市中川区荒子町)で土豪・前田利春の四男として生まれた。幼名は犬千代。君臣の間柄を越えて親交の篤かった豊臣秀吉も同じ年の生まれだといわれている。生誕地の荒子城と荒子観音はわずか200mの距離です。
富士権現社(荒子城趾:前田利家の生誕地)
富士権現社の境内にある荒子城跡の立札には、「天文年間(1532〜1555)前田利昌が築城、その長男利久、4男利家、利家の長男利長が相次いで居城。天正3年(1575)利家が越前北の庄(史実は府中説が有力)に移り、同9年(1581)利長も越前の府中(現在の武生市)に移り廃城となった。
速念寺(前田城跡)
兜の形をした大屋根でユニークなお寺ですが前田一族の本願地です。寺伝によると、当寺はもと天台宗に属していたが、天文12年(1543)、中興の意休法師の時、真宗に転宗した。意休は俗名前田利則といい、加賀公前田利家の叔父にあたる。本尊は利家が寄進した阿弥陀如来で、その蓮台には「聖徳太子御作、前田又左衛門尉利家」の銘がある。また、当地は前田氏発祥の地で、境内には前田古城跡の石碑がある。当時の前田氏は蟹江、一色、荒子を傘下に収めていた。

前田利家とまつ
 利家の生地は尾張・荒子(あらこ)城(いまの名古屋市中川区荒子4丁目)、まつは沖ノ島(愛知県七宝(しっぽう)町)で生まれたとされる。前田利家は数えの15才で、当時「うつけ者」と評されていた織田信長に仕官した。利家は4男坊で尾張の村落領主の家を継げず、自分の才覚で生きるしかないのである。仕官を巡るかすかな手掛かりは、「利家さま、お若き時はかぶき御人」とする記録である。
 「かぶき(傾奇)・ばさら(婆娑羅)」とは常軌を逸した行為、風俗などを指す。佐々木道誉などは婆娑羅大名として有名である。時代の常識を砕こうとする若者のエネルギーの表れといえようか。又左衛門利家は派手な格好に加え、途方もない長さの槍を携えて往来をのし歩き、「又左の槍」と、ひんしゅくを買ったという逸話を残す。「かぶきの又左」には「うつけの殿」が似合いである。まつは、戦乱で父を失い、母が再婚したために、利家が仕官する1年前から縁続きの前田の家で養育されていた。

 荒子城跡には現在、小さな神社が建っており、地元の人には約200メートル離れた荒子観音の方が有名である。

 前田氏初期の歴史は不明なところが多く、利家の父利昌以前については不明である。前田氏は菅原道真の後裔、菅原氏を称しているが、歴史的事実とはいいがたい。前田氏の発祥地を尾張国前田村とする説もあるが、元来の発祥地は美濃国安八郡前田である。のち尾張の荒子に移ったもので、前田から荒子はの移住がいつごろなのかは明かにされていない。
 庄内川の「新前田橋」を西に渡る。一帯は「前田西町」と呼ばれ、かつて前田一族の本拠地である速念寺がある。ここを利家生誕の地とする説もある。さらに北西へ約3キロ、名古屋市域を出ると「七宝町沖之島」に着く。宅地化が進むありふれた街の光景だ。かつての水郷地帯の名残をとどめるような水路が所々に残っている。利家もまつの家も数代さかのぼれば出自は定かではない。戦国の世は、二人のような若者たちが氏素性にかかわりなく自分の才能だけを頼りに切り開いた新しい時代であった。

 利家の仕官は1551(天文20)年。北陸では五年前に一向一揆の政庁・金沢御堂(みどう)(尾山御坊)が建立されて本願寺支配が確立し、弥陀の救いを説く教義が多くの老若男女に浸透していた。宣教師フランシスコ・ザビエルは、日本滞在2年目を迎え、開教の目的を果たして多くの信徒を得ていた。「下剋上」と南蛮文化という未曾有の波が列島を洗い、時代そのものが「かぶく」ようにして若者たちの登場を待っていた。この年、信長18歳。徳川家康は10歳になり、人質として駿府城にいた。利家と同年の豊臣秀吉はまだ歴史の表舞台に登場していない。

 信長に小姓として仕えた利家はやがて、まつと結婚し、1559(永禄2)年に長女幸(こう)を授かる。ところがこの年、信長の身近に仕えて雑用を務める同朋衆(どうぼうしゅう)が利家の太刀の笄(こうがい)(髪をかきあげたり、頭をかくときに使う細工が施された小物)を盗むという出来事が起きた。利家は信長に成敗の許可を求めたが許されず、かえって同朋衆の横暴が目についたために男を殺害し、信長から勘当されてしまう。主君の面前で斬り殺したという。処罰を覚悟の確信犯である。「かぶき者」の面目躍如たるエピソードとして後世に伝わる事件である。しかし、「又左の槍」の男気より、利家を当時の常識である死罪にしなかった「うつけの殿」の英断こそ特筆されるべきであろう。乳飲み子を抱えて二人はリストラの憂き目に遭うが、勘当もわずか二年で解かれる。甘過ぎる処分である。その間、利家は2度の戦いにひそかに加わって首五つを挙げ、帰参の手土産にしたという。良くできた武勇談だが、槍自慢だけが取りえの荒武者を親衛隊に復帰させるほど、主君は愚かではなかった。 だれよりも信長こそが、新しい時代を切り開く「かぶき者」という強いカリスマ性を持った男であった。


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