美濃路は江川町通りを西へ東枇杷島町を経て通り抜けている。街道筋には白山神社(かって神社の西側を流れていた笈瀬川に架かる権現橋の欄干が残っている)八坂神社などあり,またこの地方に多い屋根神様(屋根に神を祭り、信仰した)も街道筋にみられ、僅かですが面影の残る町並みである。
琵琶島橋と清音寺
平安時代末期、太政大臣藤原師長が平清盛の怒りに触れ尾張国愛知郡井戸田村に配流の身となった。師長は琵琶の名手で朝な夕べに京を偲んで弾じたと言う。後に出家して妙音院と号したがこれが今の昭和区妙音通の地名の由来だという。師長が帰京を許され土器野の里、今の清音寺あたりかまで見送った村長の娘と悲しい別れとなった。形見として薬師如来と白菊の琵琶を残したが、娘は別れを悲しみここで身を投じたという。その後この地を琵琶島(現在は枇杷島1丁目から5丁目)と名付け、娘の菩提を弔うためこの寺を建立した。今もこのあたりに白菊町,琵琶里町のバス停がある。
美濃路は、東海道の宮と中山道の垂井宿を結ぶ中山道付属の脇往還で、宮から名古屋・清洲・稲葉・萩原・起・墨俣・大垣の七宿を経て垂井宿に至る。慶長5年(1600)徳川家康が関ヶ原合戦から凱旋したさい、美濃路を開き宿並とし、道中奉行の支配下のあった。
美濃路は東海道の難所「鈴鹿峠」と「七里の渡し」を避け安全なため交通量も多かった。
街道筋に残る屋根神様と現在の美濃路

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