徳川家康が名古屋台地で大坂方に対し城を築き、いわゆる清須越しで、城下町を造成しました。藩政時代に上宿・幅下と呼ばれたこの一帯は本来の城下町として、旧町名も由緒ある町名が多く残されていました。藩の御用達商人も多く住み、堀川周辺には藩や商家の土蔵が立ち並び江戸時代の城下町として当時の賑わいと繁栄の後がしのばれるところです。
慶栄寺
境内に太子堂と松涛庵がある。太子堂は奈良の元興寺五重塔の古材を用い、文化元年(1804)に建立。松涛庵は足利義政が銀閣寺を建てた時、茶室として造らせたものを京都東山より移築した。
専修寺名古屋別院
正保4年(1647)現・中区丸の内に建立し、明暦2年(1656)今の地に移った。本堂は戦災で焼失し、山門と鐘楼だけは当時のままである。
子守地蔵尊
30cm程の石の地蔵が祀られている。宝永7年(1710)円城童子の刻銘があり、明治28年に付近の井戸をさらった時に発見された。
浅間神社
木花開耶姫(このはなさくやひめ)を祀り、正保4年(1647)に春日井郡より勧請。境内には樹齢300年以上のケヤキがある。
四間道(しけみち)
この付近は元禄13年(1700)2月の大火により1600余軒の家屋を焼失。尾張藩は堀川筋の裏を拡張し、道路幅を四間(7.2m)とし、かつ防火兼防備用とし東側を全部土蔵造りとしたことからつけられた名で、一部は当時のまま残っている。
伊藤家
堀川筋にあることから川伊藤と呼ばれた御用商人で、元禄時代から三期に渡って建てられた近世豪商邸宅で、四棟ある土蔵は塗籠法による防火建築の実例で名古屋市指定文化財になっている。
堀川と五条橋
堀川は名古屋城築城の際、福島正則が美濃衆を使い掘削したもので、五条橋は清洲の五条川に架けられてていたものを清洲越しの際に橋材の一部とその名を移した。昭和62年に修景工事が行われ、当時の擬宝珠は名古屋城天守閣に保存されている。

戻る  NEXT