稲生の渡しからすぐの大乃伎神社は名古屋城の北方鎮護の社で、古から信仰が厚く、太古から度重なる庄内川の氾濫と住民との戦いが随所でしのばれる。
蛇池:恐らく御用溜の一つであろう。信長の一件以来「蛇池」というようになった。
信長公記 27、比良の大蛇  蛇がへの事
 珍事があった。佐々内蔵助成政の居城・比良城は東に南北に伸びる堤があり、城をはさんだ西にはあまが池といって大蛇の化生が棲むといわれる池があった。正月中旬のこと、福徳郷の住人又左衛門という者が雨の降る夕暮に堤のあたりを通りがかったところ、胴回りが一抱えほどもある黒い物体が堤上からあまが池のほうへ伸びているのを見た。人の足音を察してその物体は頭を上げた。見ると鹿のような顔にらんらんと光る目、チロチロとのぞく真紅の舌を持った蛇の化生であった。又左衛門は総毛立って、恐怖のあまり後ろも見ずに逃げ去った。
 この話を信長公が耳にした。信長公は件の又左衛門を召し寄せて直接に話を聞き、翌日になって「ならば池の水を掻き出し、蛇を追い出してくれよう」と言い出した。かくて比良周辺の各村から百姓が動員され、鋤・鍬・釣瓶を使って池の浚渫が開始された。作業は4時間ばかり続けられたが、池の水が七割ほどになったところでそれ以上水量が減らなくなった。すると信長公は業を煮やし、「ならば水中に入り、信長が直に蛇を見てやろう」といって脇差を口にくわえて池に入ってしまった。しばらくして池から上がり、「蛇など、おらぬ」と言い、つづいて家中で水練に達者な鵜左衛門という者にも池にもぐって調べるように命じた。鵜左衛門は言われた通りに潜ってみたが、やはり蛇の姿はかけらも見えなかった。信長公は納得して清洲に帰った。
 実はこの時、信長公にはある危機が訪れていた。この大蛇騒ぎの当時、比良衆には逆心の噂があり、このため佐々は騒ぎの間も病をいつわって御前に参上せずにいた。ところが信長公は、大蛇の不在を確かめたあと「比良の城は、小城なれどなかなかによき構えであると聞く。ひとつわが目で見てくれよう」と言い出した。比良衆はこれを信長公が佐々に切腹を命じにくるものと考え、惑乱した。そこで家老の井口太郎左衛門という者が一計を案じた。水上から城の外観を見せるといって信長公を船に誘い、警護が手薄になったところで船中にて小刀をもって刺し殺そうというものであった。しかし信長公は運が強かった。比良行きを突如取り止め、あまが池からまっすぐ清洲に帰ったのである。大将というものは万事に考えをめぐらし、油断なくふるまわなければならなかった

光通寺(佐々成政城趾)
佐々成政は天文5年(1536)この城で誕生。天正3年(1575)富山城へ移った際に廃城。
西定寺:壁にかけてあった、竹の根株でこさえた面が印象的であった。
比良・六所神社
縁起式神名帳に記載のある古社である。元禄年間(1688〜1703)に再建され、もと比良の東の堤防上にあった。秋の例大祭には南・北山車保存会による神楽囃子の奉納がある。名古屋市文化財の山車が繰り出し、からくり木偶を踊らせるにぎやかな神事である。

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