熱田台地と那古野台地の西側を流れる「堀川」は、名古屋城下と熱田の海を結ぶ運河として生まれた。名古屋城の西の「辰の口」から広井・日置・古渡と下って熱田の西で海に注いだ。この堀川の開削には徳川家康の命で慶長十五年、福島正則が普請奉行として工事に当った。堀川は貨客運送に利用され、客を乗せた舟は名古屋城近くの朝日橋までのぼって来た。
松重橋:ここで中川運河と連結している。水位を調整する閘門が印象的である。
山王橋から:ぼつぼつ材木が浮かび出す。

古渡橋:堀川にかかる古くからの代表的な橋
元興寺跡
飛鳥時代に建立された寺の跡で当時の瓦が広範な地域で発掘されており、「日本霊異記」の鬼退治の道場法師ゆかりの大寺跡である。
 「敏達天皇、磐余の訳語田(をさだ)の宮から国を治められた渟名倉太玉敷の命の御世のことであった。尾張国阿育知郡片把(おわりのくにあゆちのこおりかたわ)の里」と記載されている。
「片把の里」は、古渡のことであり、古くから渡来人の住んだ集落のことで、新来の渡来人の集落は今帰・今木・今来(いまき)という地名で呼ばれた。

尾頭橋から:これより南は熱田区になる
為朝の子が道場法師にあこがれ、尾頭(おとう)姓を名乗り、やがて鬼頭(きとう)姓を朝廷より賜り、子孫の鬼頭景義が江戸初期に多大な新田開発の功績を残した。
堀川の左岸を松重橋・山王橋・古渡橋を経てJRと名鉄線の下を通り、那古野台地から熱田台地に入る。現在の堀川は水の流れがなく、市の中心部では以前ほどではないにしても、お世辞にもきれいとは言いがたい。上流から送水して浄化テストを行ったが、汚水が伊勢湾に流れ出て、漁業共同組合から苦情が出て中止になった。



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