24、桶狭間  今川義元討死の事
 永禄3(1560)年5月17日、今川義元の先陣は沓掛に参着し、翌日大高城へ兵糧を運び込んだ。このため19日には援軍の出しにくい満潮時を選んで織田方の各砦を攻撃にかかるに違いなしとの予測がなされ、18日夕刻から丸根・鷲津からの注進が相次いだ。
その夜、信長公は特に軍立をするでもなく、雑談のみで家臣に散会を命じてしまった。家老たちは「運の末ともなれば、智慧の鏡も曇るものよ」と嘲笑して帰っていった。懸念の通り、夜明け時になって鷲津砦・丸根砦が囲まれたとの報が入った。注進をしずかに聞いたあと、信長公は奥に入った。そこで敦盛の舞を舞い始めた。

 
人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻の如くなり 一度生を得て滅せぬ者のあるべきか。

 ひとしきり舞った。そして、「貝を吹け」、「具足をもて」。とたて続けに下知を発した。出された具足をすばやく身につけ、立ちながらに食事をすると、信長公は兜を被って馬にまたがり、城門を駆け抜けた。このとき急な出立に気づいて後に従ったのは、岩室長門守ら小姓衆わずかに五騎であった。
清洲城
織田信長公
桶狭間出陣の信長公

19日未明に鷲津・丸根の両砦が陥落
鷲津砦
大高城から見た鷲津砦・丸根砦
丸根砦

 主従六騎は熱田までの三里を一気に駆けた。辰の刻(午前7時)ごろ、上知我麻神社の前で東方に二条の煙が立ち上っているのを見、信長公は鷲津・丸根の両砦が陥落したことを知った。この間、出陣を知った兵が一人二人と追い着き、人数は二百ほどになっていた。

 熱田からは内陸の道を進み、丹下砦に入り、さらに善照寺砦に進んで兵の参集を待ち、陣容を整えた。そして前線からの諜報を待った。御敵今川義元は、このとき桶狭間にて四万五千の兵馬を止めて休息していた。

 時刻は19日の正午にさしかかっていた。義元は鷲津・丸根の陥落を聞いて機嫌をよくし、陣中で謡をうたっていた。また徳川家康は、この戦で先懸けとして大高の兵糧入れから鷲津・丸根の攻略まで散々に追い使われ、大高城でやっと休息を得ていた。
熱田神宮の上知我麻神社と別宮八剣社

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