戦国時代の些細な勘違いから発生した「守山崩れ」が、やがて戦国時代の大動乱に発展しました。守山城は後、織田信光、孫十郎信綱、安房守信時と城主が代わり、桶狭間の戦いで信長が勝利し、今川の脅威がなくなると共に廃城になった。
守山城跡
 大永年間(1520年頃)今川氏の前線基地として築城されましたが築城者、時期に付いて詳細は分かっておりません。
享禄・天文年間(1530年代)の頃、東の今川氏、西の織田氏に挟まれた三河の松平氏は尾張進出をはかり家康の祖父・松平清康は守山城に入りました。天文4(1535)年12月5日夜、夜間陣中の馬の綱が切れ暴れ出すという騒動が起こり、この騒動を聞きつけ一人の家臣が何故か清康に斬りつけ清康は大手門付近で絶命してしまいました。大将を失った松平軍は三河に引き返し、後世これを「守山崩れ」と言います。
 斬りつけた家臣、阿部弥七郎は以前より父大蔵に逆心の疑いありとの噂が立ち、もしもの時は弁明せよと言われていました。弥七郎この夜間の騒動を父大蔵が成敗されたものと勘違いし父を助けたい一心、主人清康に斬りつけてしまった。
 エースを失った松平家は清康の長男8代目広忠はまだ13才。やがて松平氏は終焉を迎え今川の傘下に、やがて家康が生まれ織田氏との軋轢の中、今川氏に幽閉される幼少時代の苦労が始まりました。
宝勝寺
清康の菩提を弔うために大永寺(守山区大永寺)7世大渓良澤和尚により創建された宝勝寺は城跡の堀を挟んで南に位置し、現在でも守山城有縁無縁者の法要が営まれ位牌が安置されています。以前、清康の墓石の一部が見つかった様ですが現在は行方不明です。
市場 白山神社
長さ100mの前方後円墳の墳頂に祀られた白山神社。ほぼ原形をとどめている。