11、鳴海城離反  三ノ山赤塚合戦の事
 天文22(1553)年、信長公19の御歳のことである。鳴海城主の山口左馬助・九郎三郎親子はかねて信秀殿に目をかけられていたが、信長公に代が移ってほどなくして謀反を起こし、駿河衆を引き入れ笠寺・中村に砦を築いた。
 この報に接し、信長公は4月17日兵八百を率いて出立し、古鳴海の三の山に陣を構えた。これに対して敵勢千五百は三の山から15町先の赤塚に繰り出してきた。この様子を見た信長公も前進し、赤塚に兵を展開した。
 はじめ4・5町を隔てて矢戦が行われ、屈強の射手があまたの矢を放った。このとき荒川与十郎が兜の庇の下を射ち抜かれて戦死し、敵味方の間で遺体の引き合いとなったが、無事味方が遺体を収容することができた。その後乱戦となり、双方互いに譲らず、痛み分けの戦となった。この戦で織田方の死者は三十人に及んだ。捕虜になった者や敵方に捕まった馬も多かったが、このころの戦は敵味方互いに顔見知りでもあったから、馬は返還し、捕虜は交換した。信長公はその日のうちに帰城した。
旧東海道の鳴海宿と鳴海城跡公園から大高方面を望む

20、四方悉く敵  おどり御張行の事
 このような中で、7月18日信長公は津島で盆踊りを盛大に催した。旗本の士たちが赤鬼青鬼・地蔵や弁慶といった仮装をし、信長公は天人の格好をして小鼓をうち、女人踊りを踊った。思わぬ楽しみにあずかった津島の村々の者たちは、清洲まで御礼の踊りを見せにやってきた。信長公は大層満足し、一人一人に言葉をかけてやり、茶などをふるまった。皆感涙して帰っていった。
 鳴海城には山口左馬助教継が配されていた。ところが左馬助は駿河に内通してしまい、近在の大高城・沓掛城も調略によって落とされてしまった。そして鳴海城には駿河から岡部五郎兵衛元信が新たに城主として入り、大高・沓掛にも駿河の大軍が入った。山口親子は駿河へ召還されたのち、内通の褒美の代わりに腹を切らせられてしまった。
 この頃の信長公は尾張下四郡の支配者のはずであったが、河内郡は服部左京という坊主に押領され、知多郡は今川勢に占領されてしまっており、残りの二郡も乱世のことゆえはなはだ危うい状態で、まことに不安定な立場にあった。
大高城跡
沓掛城跡

23、臨戦 鳴海の城へ御取出の事
 尾張に今川の勢力が進入していることが、信長公の苦痛のたねであった。
 今川方の前線鳴海城は天白川の河口近くにあり、東は丘陵が連なり、西には深田が広がる。信長公はこの城の押さえとして丹下・善照寺・中島に砦を築き、それぞれ水野帯刀・佐久間信盛・梶川平左衛門を入れた。さらに鳴海と大高城との間にも丸根砦・鷲津砦を構築して両城を分断し、丸根は佐久間盛重に、鷲津は織田玄蕃秀敏と飯尾近江守親子に守らせた。
鳴海城の押さえとして丹下・善照寺・中島に砦を築いた