平泉は特別な場所である。義経をかくまった藤原氏の黄金文化。中尊寺は850年慈覚大師により開基。天台宗の東北大本山である。1124年以来、藤原四代に庇護され、金色堂、三代のミイラ化、源義経伝説で増幅された印象もあるが、金色堂はコンクリート製の覆堂で隠されているが中はさすがにたいしたものである。
平泉中尊寺・高館・毛越寺
2003年4月26日:鳴子温泉に泊まり、娘がどうしてもと言うので足湯を探して早速実践。ぬるかった。
平泉中尊寺・月見坂に到着。参道は満開のさくら、カタクリの花とフキノトウ・水芭蕉が歓迎してくれました。
芭蕉が「五月雨の 降り残してや 光堂」 「夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡」の句を残した平泉。800年の歳月は堂等伽藍は灰燼に帰し、金色堂だけでも残っているのが救いです。藤原四代100年の栄華もすっかり苔むし、旅人の心をなごませます。
高館(たかだち)義経堂:兄・頼朝に追われ、藤原秀衝を頼って落ち延びた義経の館跡。残念ながら義経は、秀衝の子・泰衡に襲われこの地にて生涯を終えた。眼下には弁慶が立ち往生した衣川、北上川が望める。ただし、首は焼けただれ、兄・頼朝もソッポを向いて確認しなかったため、秀衝が密かに義経一行を脱出させた「北行説」も根強く、スケジュールも完璧に竜飛岬までは追えるそうです。後は北海道説、モンゴル説など等。頼朝は名古屋生まれ、義経は熱田さんで元服。おもしろそーですね。
毛越寺(もうつうじ):850年中尊寺と同じく慈覚大師の開基。藤原四代の頃は金銀ちりばめ伽藍、堂塔40、僧坊500が立ち並び、吾妻鏡に「荘厳並びなし」と記された。今も庭園の池に杯を浮かべ、流れにあわせ和歌を詠む「曲水の宴」が行われます。境内の茶屋の「もち定食」はずんだ、あずき、しょうが汁、雑煮の順にたべました。