津金文左衛門胤臣 新田開発と尾張磁器開発

 江戸時代後半ごろのこと。尾張九代藩主徳川宗睦は小禄だった文左衛門や水野千之右衛門らを抜擢、干拓や河川の改修などを推進して尾張藩中興の祖と言われた人。熱田奉行兼御船奉行の職にあった文左衛門は新田開発を進言、干拓事業を陣頭で指揮し、寛政から享和年間(1790〜)に熱田前新田や飛島新田を開発した。また、新田の開墾地を巡視中、鍬使いがとても下手な一団の人夫の中に、有田磁器に壊滅的打撃をうけ廃業した瀬戸の元陶家 加藤吉左衛門・民吉父子を見い出し、熱田新田の古堤に築窯。その後、民吉を有田へ送り込み磁器製法を学ばせ、瀬戸の今日の発展の基礎を造った。

新田開発は直接の藩の出資工事ではなく、資金調達者は、藩に対する一般的債権者として扱われた。工事については、特に築留工事が困難を極め、これだけで7千両を要したといわれ、その出費に責任を感じて自刃し飛島村長昌院で荼毘(だび)に付された。    

 名古屋の大須にある大光院に葬られたが、戦後、その墓所が平和公園に移される折、干拓するに際して本拠を構えたゆかりの地でもあった飛島の人たちの強い要望で長昌院に遺愛碑を墓標代わりにもらい請けることになった。また、港区浄専寺にも津金文左衛門胤臣の分骨が納められ、山田秋衛作の津金文左衛門胤臣の肖像画も所蔵されている。

津金文左衛門胤臣頌徳碑

 瀬戸の陶器の歴史は古い。仁治三年(1242)に加藤四郎左衛門景正がこの地の良質の陶土に着眼して窯を築いたことからはじまる。延宝年間(1673〜)尾張藩主徳川光友は瀬戸焼の原料祖母懐の土を藩の御用窯の外一切使用を禁じた。又、陶家には一戸に付きろくろ一つと制限した。そこで戸主でない一家の者は鋤鍬をとって百姓になるか、土方人足になる者が多かった。

 寛政九年(1797)頃、当時尾張国熱田新田の開墾奉行だった津金文左衛門胤臣が新田の開墾地を巡視中に、鍬使いがとても下手な一団の人夫がいるので、その素姓を訊ねた処、元瀬戸の陶家の者だと答えた。更にリーダー格の加藤吉左衛門を呼んでその事情を糺したのである。瀬戸の陶器は、白くて薄く、しかも丈夫な有田磁器におされ、壊滅的打撃で廃業し人夫をしていると答えた。


尾張磁器発祥之地碑(港北公園)
 当時、佐賀藩の有田磁器は門外不出の特産品で名工等を徴用した上、外出さえ許さないようにして技術の漏えいを警戒していた。
 新たな産業開発を目指していた津金文左衛門は、翌年吉左衛門父子を瀬戸へ帰して、庄屋をしている本家の加藤唐左衛門高景を協力させて白磁製作の研究に没頭させた。折から佐賀藩を逃亡中の有田焼の名工・副島勇七が加藤久米八や忠次等に磁器製法を伝えたが、適当な原料を得られずにいたのである。
 それから彼等は胤臣の中国から伝来の原書で南京石焼の磁器製法にヒントを得て、知多郡翔缺村の原料を吟味し刻苦奮励数十回も試焼した末、漸く似よりの盃四・五を焼き上げ胤臣に示した処、彼は非常に喜んで早速熱田新田の古堤に築窯しようとした。

 ところが、瀬戸では本業の陶器に影響すると反対が起こった。この間に立って当惑したのは庄屋の唐左衛門だった。従来の瀬戸窯焼達が瀬戸の死活問題だと騒ぎ立てるのに、代官の水野権平も同調した。だが、唐左衛門の斡旋によって藩家老送水甲斐守が裁断して、これを熱田でなく瀬戸でやることにした。胤臣も承諾してこの事業を新製と称して陶家の次男以下にやらせると定めたのである。

 そして、享和二年(1802)11月、瀬戸で初火入れをした。だが、結果は甚だ不完全だった。翌年、胤臣は75才で死去した。衆議は誰かを有田へ潜行させることになって民吉が選選ばれたのである。彼は必ず秘法を習得して帰ると誓って享和四年(1804)2月、瀬戸を出立したのである。

 その時の民吉の行動は用意周到だった。

尾張国愛知郡菱野村生まれで、今は肥後国天草の東向寺の住職をしている天中を頼って、天草の高浜に上陸したのである。天中は民吉の目的と志を聞いて、この地の窯焼上田原作に周旋した。彼はそこで半年間一生懸命に働いた。だが、上田は肝心の磁器の施釉法だけはどうしても教えてくれない。そこで或る日、民吉は長崎の諏訪祭を見たいという口実で天草を去った。

 懐中には天中の添書があったので、彼は平戸領佐世保村の西方寺を訪れた。文化二年(1805)のことである。西方寺は折尾瀬村の薬王寺を紹介してくれたので大川内の窯焼今村幾右衛門方に職人として住み込んだ。だが、間もなく藩の人別調べがあって、他国人は一切この地に滞在させてはならないという布告があったので、又、薬王寺の寺男に戻ったのである。

その内に彼は江永山の某女を妻としてこの地の環境に溶け込んだ。そして、この地の久右衛門という窯焼に住み込むことが出来た。だが、当時の江永山の製磁技術は大川内より随分遅れていることが分かり、大川内へ帰る機会を窺っていた処、本場の有田は一里半ほどの道のりと聞いた彼は、伝手を得て有田皿山に潜入したのである。

 彼は泉山の築窯師堤惣左衛門の家に寄寓することが出来た。そして、丸窯の構造や還元焔の焚き方などを熱心に見学していた。だが、余りに真剣な態度を怪しまれているのに気付いた彼は慌てて薬王寺に帰ったのである。しかし、ここでも身辺に危険を感じた彼は、妻の親の注意もあって同年十二月、妻と共に出奔して佐々村の市の瀬鴨川の窯焼福本仁左衛門方に身を寄せた。
 仁左衛門は民吉の精勤ぶりが気に入り、胸襟を開いて釉薬その他の製法を詳しく伝授してくれた。これで全くその目的を果たした彼は妻に因果を含めて文化四年(1807)単身この地を去った。

 彼は帰途長崎から天草に寄って東向寺を訪れて厚く謝した後、上田家へ参上し先に欺いて去った無礼を深く詫びてから自分の素姓と目的を明かしたのである。それを開いて却って感動した上田は自家秘伝の赤絵付けの法を伝授したといわれている。

 彼は瀬戸への途次、肥後国八代の高田窯を見学して同年6月18日、三年ぶりに瀬戸へ帰着したのである。彼が製磁の法を得て帰ったと、瀬戸は勿論、熱田奉行で胤臣の嫡男である津金元七胤貞の喜びは一方でなかった。

浄専寺(港区)
文左衛門の分骨が納められている
瀬戸・窯神神社
津金文左衛門胤臣父子の碑と磁祖・加藤民吉保堅の顕彰碑
 その三年後の文化七年(1810)に瀬戸磁器の祖加藤民吉保堅は五十三才で卒去した。

 平戸藩では民吉を匿ったという罪によって、薬王寺第十三世の住職雄山泰賢は、国法に従い傘一本を持って国外へ追放されたのである。又、佐々に残された民吉の妻女のその後のことについては何ら伝えられていない。副島勇七は顔料の呉須売りに変装した佐賀藩の捕吏に捕縛され、寛政十二年(1800)嘉瀬の刑場で斬首された上、他の工人達へのみせしめと大川内の街道鼓峠に晒し首にされた。

 その後瀬戸では木節や蛙目などの優良な窯業原料が次々に開発されて民吉がもたらした磁器を益々盛んにしたのである。そして、それから百年後の二十世紀初頭、有田が独占していた磁器日本一の座を奪う程の強力なライバルになって今日に至っているのである。