佐屋街道は、万場で庄内川を渡ると昔は海東郡で七宝町、津島を経て佐屋に至る道だった。万場は馬場(うまんば)が略されて伝わった地名である。千音寺に千音寺という寺はなく、都市高速や国道の建設などで、のどかな田園風景が残っていたこのあたりも様相が一変した。
万場・国玉神社
佐屋街道の脇にあり、現在は、国玉神社と八剱社が合殿になっている。平安時代の初期の作である延喜式神名帳にも記録されている由緒ある神社である。津島午頭天王社の地主神
光円寺
もとは天台宗で、医王山瑠璃光院薬師寺と称したが、嘉禄元年(1225)一向宗に改宗、臥龍山蓮華院光円寺とした。山号「臥龍山」の立派な金字額がかかる山門は、織田信長と斉藤道三が会見した尾北(尾西市)富田村聖徳寺の山門を移築したものである。手入れされた庭には、ハゼノキ・サルスベリ・カエデの接木したような寄合木がある。また、天台宗所属時代の本尊薬師如来と蓮如上人真筆六字名号がある。
千音寺・赤星神社
祭神は根裂尊。神社の南を通る都市高速や国道の建設で様相が一変した。しかし、往時は国司が祭礼に参詣し、祭典を行った神社であり、このあたりでは数少ない星神の信仰の社である。赤星は明星が正字で南区星崎の星宮神社(尾張氏の本拠地・知我麻神社の在所)との関係に興味が湧く。星を祀る信仰は本朝神道の例に無く、漢風の倣いで、中国系渡来人の信仰かもしれない。
服部・八幡社と観音堂
機織部(はとり)で部は読まないのが正字である。室町の頃、津島武士・服部平左衛門が服部村の地頭であった記録がある。
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