今も、水道水の源は川である。人と川の関わりは深い。縄文の定住生活は、安定的に食料が獲得できる所が選ばれ、良好な水場も不可欠でした。山崎川を挟んで両岸に展開した貝塚は大集落であり、弥生期には水稲耕作の拡大とともに人口も増大し、やがて集落は台地へ移行し井戸田、高田地区へとつながる。周辺の古墳群を造営した勢力は、年魚市県(あゆちがた)を本拠地にして、熱田神宮に草薙剣を祀って大和朝廷とも関係の深い尾張氏を支えた豪族であると思いをはせるのも一興である。
大曲輪貝塚
昭和14年に発見され史跡に指定。昭和55年瑞穂競技場改修工事で、縄文時代の人骨が犬とともに完全な形で発見され、現在は名古屋市博物館に展示されています。
下内田貝塚
瑞穂古墳群と同時期の遺跡で、当時のサブグラウンドあたりは池になっており、かなりの数の集落があり、生活しやすい環境にあったと思われる。
大曲輪貝塚の人骨複製が見られる
瑞穂古墳群
1号墳は隣接する豊岡小にあり、古墳の頂上には円筒埴輪をめぐらしていた。
3号墳は野球場建設で破壊された。
瑞穂古墳2号墳:野球場南に径30m高さ5mが保存されている
あゆちの水
万葉集に詠まれた尾張の名水「小治田の年魚道の水」伝承地。径1m、深さ3mほどの井戸で、日照りの時も枯れたことがないと言われている。
当時の名古屋港沿岸は年魚潟(あゆちがた)と呼ばれ、後の県名(あいち)の語源にも成っている。
あゆちの水:グラウンド東の森にひっそりとある
道分地蔵:今も交通の要所、山下通交差点にあるお地蔵さまです。