25、信行誅殺 家康公岡崎の御城へ御引取りの事
桶狭間の戦の後、徳川家康は岡崎城に入っていた。信長公は義元の死に乗じて三河に進攻し、梅が坪城を攻めた。戦ははじめ激しい弓戦になり、のち城兵が打って出て激しい白兵戦となった。この戦で前野長兵衛が討死した。また平井久右衛門という者はその強弓を敵味方から賞賛され、信長公から褒美を与えられた。信長公はさらに伊保城・八草城へも押し寄せ、田畑薙ぎをおこなった。
さて義元の死以前のことである。信長公の御舎弟勘十郎信行殿は竜泉寺に築城し、上郡岩倉の織田伊勢守信安と結び、信長公の直轄領である篠木三郷の押領をもくろんでいだ。
そのような中、信行殿の家中に津々木蔵人という若衆がいた。信行殿の覚えめでたく、家中の面立った侍はみな津々木に付けられた。自然津々木は驕り、老臣の柴田勝家を軽んじるようになった。柴田はこれに憤慨して信長公の下へ奔り、信行殿が再度の謀反を企てている旨を密告した。
信長公はこの日から病の体をよそおい、表へ一切出なくなった。信行殿は、御袋様や柴田から「御兄弟の間柄です。御見舞いに行かれませ」と勧められ、弘治3(1557)年11月2日、清洲へ見舞いに赴いた。そして清洲城北矢倉天主次の間において殺害されてしまった。この時の功績があって、柴田はのち信長公から越前国を与えられるまでに出頭したのであった。
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