高針から松井にかけては、昔の集落のたたずまいが比較的よく残されており、ヤマモモの古木がたつ民家も松井町にみられる。東から蓮教寺・済松寺・東勝寺と3つの寺がある。
東西の通りは、信州へ通じる旧街道「中馬街道」であった。
牧の池
愛知県第三位、市内最大の大池で、正保3年(1646)尾張藩の郡奉行・勝野太郎左衛門が当地の窮状を知り、数年間を費やし完成させた。豊かな自然から渡り鳥や野鳥観察、貴重なチョウの姿が見られます。
高牟神社
高牟神社は、旧高針村の氏神だ。クロガネモチの大樹を仰ぎ、鳥居をくぐると、参道に灯篭が並んでいる。
千種駅近くの高牟神社
を分祀したもので、古代は尾張物部氏の勢力下にあったものでしょう。武器庫が神社として祀られるようになったとも伝えられる。祭神は高皇産霊神、神皇産霊神、誉田別命。
伝統行事「おまんと」の馬具を保存する。高針には「棒の手」は、鷹羽検藤流、直心我流、鎌田流の各流派が伝承され、「高針棒の手」として無形民俗文化財に指定され地元保存会によって伝承されています。
東勝寺
東勝寺(真宗)は、諸病に効く名灸で知られaA門前のクロマツが見事な寺だ。
済松寺(臨済宗)は、ややこぶりな寺で、境内は花園保育園となっている。蓮教寺(真宗)は、平安時代に天台宗の寺として開かれ、永禄年間に真宗高田派の寺院に改められ、元和年間に今日の蓮教寺を名乗った。
済松寺
山門が見事な蓮教寺
デッチョ池:神丘中学南東にあり、山ノ神周辺の田畑を潤した灌漑池。渡り鳥の観察の穴場。
高針の「針」
この地方には針のついた地名がある。高針、平針。大針などである。「針」はチクチクする尖った針のことではない。開墾を意味する「はり(墾)」である。「はり」は「はる=原」のことであり、九州の地名の『__原』の殆どが『ばる』と発音します。語頭の場合は清音化して、「はる」です。壱岐の島の「原(はる)ノ辻」、よって「はり」に「針」の字を当てただけなのである。これらの地名があるのはかつて尾張と呼ばれていた。「おわり」自体も「をはり」と表記していたことから「はり(墾)」が語源である。ここにも古代豪族・尾張氏の影響がみられます。
信州への道,中馬街道
馬頭を頂いた観音様の姿を見て、馬とともに生活する人々の中に、馬の無病息災を祈る民間信仰が生まれました。農家では農耕馬の、馬の産地では生まれ育つ仔馬たちの、そして馬稼ぎの人々にあっては馬と歩む道中の安全を祈ったり,また道半ばで力尽きた馬の冥福を祈ったり、そんな理由で馬頭観音は作られたのでしょう。信州中馬街道に沿って、あちらこちらに石の馬頭観音が残されています。
尾張名古屋から奥三河の足助宿を経て信濃の国へと向かう中馬街道。かつては地方と都市とを結ぶ、重要な物流のルートでした。特に近世には、内陸部へ塩を運ぶ「塩の道」としての役割を忘れることはできません。伊那地方では「足助塩」とか「足助直」とよばれるほど、足助は中馬としての位置を占めていた。。当然、茶筒や瀬戸の陶磁器が信州へと運ばれることもあったでしょう。主要街道を通り、宿駅ごとに新しい馬に荷を積みかえる「伝馬」と異なり、一頭の馬に荷を積んだまま、休み休み運び通すやり方を「中馬」といいました。「中継馬」「賃馬」から転じた名称です。「中馬」は脇道を通ることが多く、小規模な輸送に利用されたようです。
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