津島神社は古くは津島牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)と申し、欽明天皇元年(西暦540)にご鎮座され、その後弘仁元年正一位の神階と日本総社の号を、一条天皇の正歴年中には天王社の号を賜わり、諸国の天王社の総本社で、全国に約三千のご分霊社があります。
津島神社:御祭神 建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)御相殿 大穴牟遅命(おおなむちのみこと)(大国主命) 社伝によるに、須佐之男命韓国に渡りましける時、その荒御魂は尚出雲國に鎮まりまして日御崎の神となり給ひ、又和御魂は孝霊天皇の45年乙卯(前245)に一旦西海の對馬州に鎮まりまし、欽明天皇の元年庚申(540)この地藤浪の里馬津港居森の地神島の南に移らせ給ひ、聖武天皇の天平元年己巳(757)神託によりて北方柏森に移し奉り、嵯峨天皇の弘仁九年庚寅(801)今の地に移り給ふたとある。
「津島牛頭天王社」「天王さま」とも呼ばれ、疫病や厄除けの神様として親しまれています。多くの武将が天下取りを争っていた時代、信長や秀吉など名をあげた武将とのつながりも強かったようです。ここには、歴史の重みとともに、多くの文化財が残されていて、家康の四男松平忠吉の妻の寄進による本殿や豊臣秀吉の寄進による楼門は国の重要文化財となっています。
津島の町には、かつての湊町や商都として栄えた頃の面影がそこかしこに見られます。ご神木の大銀杏と禰宜町景観
清正公社:加藤清正の鬼退治伝説 上切の古井戸:木曽川の伏流水 地蔵堂
千体仏地蔵:(円空仏)
小さな地蔵堂の中に、小さな木彫りのお地蔵様が並んでいます。21cmの本尊「地蔵菩薩」を中心にして、約5〜7cmの円空独特の切れ味するどい小仏千八体が光背の形式に配置され圧巻である。5月3日に公開される。
津島神社参宮道:上街道下街道の交わったところで、これらの街道や巡見街道から天王様まいりの人々でにぎわう橋詰町の入り口であったため大きな道しるべが立てられた。
 「左津島神社参宮道」と彫られた道標が、今も老舗とともに情緒を残しています。
天王川公園:春の桜、初夏の藤、夏の天王まつりをはじめ、天王川公園には四季おりおりの見所がいっぱいです。
[お旅所]宵まつりの日(7月の第4土曜日)「天王さま」が神輿で神社からこの地においでになり、祭礼をご覧になる場所です。天明5年(1785)、ここに堤が築かれました。
[車河戸]木曾川の支流である天王川は古くから水上の交通路として利用されました。ここは、その天王川の入江になった所で、木材などの荷の積み降ろし場でした。今は、尾張津島天王まつりの津島車の屋台島があり、ここで車楽の準備が行われます。
織田・豊臣時代から名古屋北西部より、清洲・甚目寺・木田・勝幡をへて津島へ入る道で、街道の両側にみられる家のつくりは昔のようすを残している。とくに今から130年ほど前(江戸の天保年間)には伊勢まいりとともに天王さまへのおまいりの道として記録にも残されている。「津島まいらねば片まいり」といわれた時代の主な街道として佐屋街道とともに大いに利用されていた。