熱田と佐屋を結ぶ佐屋街道。佐屋から桑名までは船で下るが、「七里の渡し」から海路を行くより穏やかで安全なため女性や子連れの旅人に好まれた。道は「万場の渡し」を渡り、新川を渡ると七宝、蟹江川を渡ると神守、日光川を渡ると津島へ入る。もともと水郷地帯である。
佐屋街道、新川に残る砂子(須な子)橋の石柱跡。橋は現在工事中。お社になっていて、なぜか天狗の彫刻。
七宝焼原産地の道標
七宝役場北交差点の北西角に七宝焼原産地の道標が建てられている。それぞれの面には「七宝焼原産地 宝村ノ内 遠島」「従是六町」「明治廿八年八月建之」と刻まれているが、南面の上部にはローマ字で「shippoyaki Toshima」と記されている。
七宝とは七つの宝物「金・銀・瑠璃・しゃこ・瑪瑙・真珠・まいえ」のことで七宝焼の美しさが七種の貴品に似て絢爛で高貴である所からこの名がつけらている。
七宝焼の創始は、服部村(中川区富田町)の梶常吉といわれている。常吉はオランダ人が持ってきた一枚の七宝焼の皿を得ていろいろと研究したが、その技法は容易に会得できなかった。よってこの皿を破砕分析し胴胎植線施釉の構成を知り、それに近い精巧な七宝焼を制作した。その技法が七宝町遠島の林庄五郎に受け継がれ、さらに塚本貝助・塚本儀三郎により、この地に七宝焼の基盤がつくられている。
義経ゆかりの弓掛橋 下田村にあり。九郎判官ここより強弓を放ちて試みられけるに、百町を通りて其矢落ちたりしかば、其所を百町村と名づけ、そこに矢落ちの社をも建てしといひ伝えし古跡にして、今も猶、古松一株あり。
神守宿は佐屋路の4宿の中で最もおそく設置された宿場であり、本陣は1軒、脇本陣は無し、旅籠は12軒であった。宿場は下町・中町・上町で構成され、町並みの長さは7町51間である。
神守一里塚:千音寺一里塚に次ぐ4番目で、佐屋路では唯一残されている一里塚である。残念ながら右塚しか残されていないが、塚には椋の木が植えられている。神守一里塚が宿場の東入口で下町となる。
億感神社
観音堂
役の行者
穂年神社:大年神社が正解であろう。須佐男の息子である。津島神社の勢力下で分祀されたものであろう。天孫系以前がしのばれる。
津島市・津島神社
津島〜佐屋の佐屋街道