中山道六十九次のうち江戸から数えて四十二番目の宿場となる妻籠は、中山道と伊那道が交差する交通の要衝として古くからにぎわいをみせていました。
江戸初期に宿駅が制定されると妻籠宿本陣には島崎氏が任命され、明治に至るまで本陣、庄屋を兼ね勤めました。島崎藤村の母の生家であり、最後の当主は藤村の実兄で、馬籠から伯父の所へ養子にきた広助でした。
2003年5月29日:妻籠は鯉岩・水車・高札と入り口から期待させます。社会見学か小学生が興味深げにウロウロしていました。
本陣は明治に入り取り壊され、その後明治32年に御料局妻籠出張所が建設されました。本陣の復原は妻籠宿の保存が始まった当時からの念願であり、島崎家所蔵の江戸後期の絵図をもとに、平成7年4月に復原されました。
家並みは素朴で繊細であり、昔の旅籠そのままに出梁(だしばり)造りや竪繁格子(たてしげごうし)の家々が並びます。
そこに人が住み、生活しながらつづけられてきたのが、妻籠宿の保存運動です。最初に保存運動が行われた寺下地区は妻籠宿の原点ともいうべき町並みです。