陳元贇 ちんげんぴん(1587〜1671)
近世初期、明の帰化人で中国拳法家。浙江道虎林の出身で、字は義都、既白山人・菊秀軒・芝山と号した。鎖国前の一六一九年(元和五)明朝末の動乱を嫌い、長崎居留の明人を頼って来日、二一年浙江道奉檄使単鳳翔に従って上洛、京都所司代板倉伊賀守に面会し、石川丈山らと親交を結んだという。詩書をはじめ製陶や拳法など多芸多才の人で、寛永二年(三九歳)のころ江戸へ出て、良移心当流和(やわら)を創始した福野七郎右衛門らの柔術家と接触して、彼らに少林寺系の中国拳法や接骨術・「十手」の使用法を伝授したと伝える。その後、江戸、京都、防長などの各地を流泊したが、晩年は尾張侯徳川義直に招かれて詩書を講ずるかたわら、瀬戸産の土を用いて陶作に妙技をふるった。その製法は、酸化コバルト系の呉須(ごす)という顔料を使って素地に書画を描き、これに白青色の透明な釉薬を施して焼き上げるもので、元贇焼とよばれて珍重されている。寛文年間名古屋に没した。〈大日本百科事典 渡辺一郎〉
伊豆湯河原 福泉寺大仏
この大仏が寄進されたのは昭和になってからのことですが、この像が作られたのは名古屋藩主・徳川光友公の代になります。
光友公の父・直義公(家康の子)がある狩の帰り道、馬の上よりはるかに見て、「一町人の娘が健げにも耳の遠い老母が行列が来るのを知らずに、家の前で行水しているのをタライ諸共奥へ運び去った」のをご覧になり、孝心とその行為に感激されて娘に御殿奉公を命じました。娘は後、若君を懐妊され、「匹夫下郎の卑しい身分で股から御産み申すは万世の恥じである。腹から御産み申さん」といい、ついには断腹して光友公を御産みになられました。母胎は若君誕生後、命を落とされました。
光友公は若くして孝心信仰厚く、ご自身の誕生をお聞きになり、母上の菩提を弔う供養として釈迦無尼仏の像の建立を発願されました。製造に当たってはゲンピンという人に命じ、尾張瀬戸赤津村大仏山の土をもって謹造したものです。時代の変遷により胴は何処に埋没したといわれています。
定光寺本堂
帰化明人陳元贇の設計とされることから特有な建物として国の重要文化財になっている。明応9年の再建その後永正7年の地震、最近になって伊勢湾台風などの被害などにあっている。その都度修理して上層部が整えられ今日に至っている。
又、日本最古の敷瓦風床タイルが使用されている。
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