岩窟に住み、葛を衣とし、清水を浴びし、非凡な呪法を修めた修験道の開祖・役行者は、貧困や病気に悩む衆生救済のための修行の場として大峯山を開きました。まず地主神・弁財天女を弥山頂上に祀り、すさんだ人心を救う仏の出現を一心に祈った際、「突然、天地が激しく揺れ、忿怒の形相をした蔵王権現が地から湧き出した。行者はおおいに歓喜し、この仏を修験道の本尊として崇め奉った」と伝えられています。
2003年6月蛍見物の途中下車・天河大弁財天
2003年6月13日:奈良県天川村の天河大弁財天
天河大弁財天社(天河神社)は、金峰山信仰や大峯修験の隆盛とともに修験者が参籠修行する霊験所として栄え、平安末期から中世にかけて入峯者の多くはここを訪れたと考えられています。
南北朝時代には南朝帝の御所があったとされており、南朝の吉野最奥の拠点になったであろうと想像されます。室町時代にはここを訪れる修験者や弁天社の御師が民間にその霊験を唱導し、南都を中心に天川弁天詣が大流行しました。
この奇妙な石の下には鬼が
封じ
込められているらしい。
古くは「天ノ安河ノ宮(あまのやすかわのみや)」と呼ばれ、天川の地名の由来ともなった天河大弁財天社は、弥山川、川迫川、山上川を集める天ノ川の河畔にあり、分水山の信仰を生み、後に、修験道においても重要な地位を占め、水神と弁才天信仰が習合して辨天社の成立に至ったと考えられています。

厳島、竹生島の弁才天とともに日本三大弁天の筆頭とされる天河大弁財天社。天河大辨財天に古来より伝わる独自の神器の五十鈴(いすず)は、、天照大御神が天岩屋戸にこもられたとき、天宇受売命(あめのうずめのみこと)が、ちまきの矛(神代鈴をつけた矛)をもって、岩屋戸の前にて舞を舞われ、神の御神力と御稜威をこい願われたことによって、岩屋戸が開かれ、天地とともに明るく照りかがやいたという伝承に登場する、天宇受売命が使用した神代鈴と同様のものであると伝えられていることから芸能の神様としても有名です。

天川社家のなかでも現宮司家には「大峯修験開祖の役小角に仕えた
五鬼のうち、前鬼鬼童の子孫であり、節分の晩に鬼が泊まりにくる」という言い伝えがあります。


大峯と高野を結ぶこの大峯〜高野街道(県道53号)には弘法大師にまつわる井戸水の話、姿見として使った鏡岩の話など数々の伝承が残ります。現在でもこの2大霊場をダイレクトに結ぶ街道として毎年夏には期間限定の大峯高野バスも走っています。