古くは「天ノ安河ノ宮(あまのやすかわのみや)」と呼ばれ、天川の地名の由来ともなった天河大弁財天社は、弥山川、川迫川、山上川を集める天ノ川の河畔にあり、分水山の信仰を生み、後に、修験道においても重要な地位を占め、水神と弁才天信仰が習合して辨天社の成立に至ったと考えられています。
厳島、竹生島の弁才天とともに日本三大弁天の筆頭とされる天河大弁財天社。天河大辨財天に古来より伝わる独自の神器の五十鈴(いすず)は、、天照大御神が天岩屋戸にこもられたとき、天宇受売命(あめのうずめのみこと)が、ちまきの矛(神代鈴をつけた矛)をもって、岩屋戸の前にて舞を舞われ、神の御神力と御稜威をこい願われたことによって、岩屋戸が開かれ、天地とともに明るく照りかがやいたという伝承に登場する、天宇受売命が使用した神代鈴と同様のものであると伝えられていることから芸能の神様としても有名です。
天川社家のなかでも現宮司家には「大峯修験開祖の役小角に仕えた五鬼のうち、前鬼鬼童の子孫であり、節分の晩に鬼が泊まりにくる」という言い伝えがあります。
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