天川村は歴史の宝庫です。役の行者を開祖とする修験道や弘法大師の高野山とのダイレクトな交流、南朝時代の中心人物たちと深いかかわりをもち、明治の廃仏毀釈で52あった寺を全部廃棄(寺が佐幕派のため)した歴史をもちます。
2003年6月蛍見物の途中下車・龍泉寺
2003年6月13日:奈良県天川村の龍泉寺
千三百年の昔、大峯山の開祖、役の行者によって草創された名刹で、全国修験道の根本道場として必ず訪れる霊場です。境内、竜の口より湧き出る清水をたたえた大峯山中第一の水行場があり、本尊弥勒菩薩、八大龍王、役の行者尊は、全国信者の尊崇を集めています。
又、近畿三十六不動尊第三十一番の礼所でもあります。
修験道(大峯信仰)の隆盛と共に登山基地として栄え、たくさんの旅館・土産物店・お食事処が軒をつらね温泉街を形づくっています。又洞川の里は役の行者の高弟「後鬼」の子孫の里とも伝えられています。
役行者(えんノぎょうじゃ)、役の優婆塞(うばそく、出家せずに半俗半僧の修行者)は、続日本紀によると、姓が役公(えだちノきみ)で、名を小角(おづぬ)と云い、634年(舒明天皇6年)大和国葛木上郡茅原の里、奈良県御所市茅原(ちはら)の茅原山・金剛寿院「吉祥草寺」で生まれた。

日本霊異記上巻第28に「役の優婆塞は、生まれながらに知があって、博学なること当代一にして、三宝(仏、法、僧)を信じ、これを持って業とした」と書かれ、彼は幼少より天性聡敏で、7歳にして仏耒に志しその蘊奥(うんおう)を極め、孔雀明王(毒蛇を食べる孔雀の神格神)の呪を体得し、その秘法を自在に駆使し、645年(大化元年)12歳の時、葛城山に登り、「櫛羅(くじら)の滝」や「行者の滝」に打たれ、大変質素な修行を開始し、藤葛の皮で編んだ衣を着て、松の実を食べていたが、その頃、葛城山へ日参する役行者を、途中村の街道筋にある「野口神社」の祭神彦八井命(ひこやいノみこと)の後胤で、茨田(まんだ)の長者の娘が見初め恋に落ちたのに、役行者が修行一筋で応じ無かったら、ついに娘は女の一念で大蛇に変身し、悪息を吐きながら行者を呑み込もうと、端午の節句に森の中の穴に隠れて待っていると、ちょうどその時、野良仕事へ行く村人が通りかかり、火を吹く大蛇に驚いて、持っていた味噌汁をぶっかけ逃げ帰りました。後で村人が来て見ると、大蛇が井戸の中に入ったので、岩で口を塞ぎ閉じ込めた。

17歳の時、当時麻の如く乱れていた人心を救済しようと発願し、19歳で家を出て長期の山嶽修行に入り、ある時、生駒山の麓で修行の邪魔をする2匹の鬼、前鬼(雄の儀学)と後鬼(雌の儀賢)を捕らえ、弟子にして身辺警護をさせました。34歳の時に、金峯山(吉野から山上ケ岳一帯)で蔵王権現の示現(じげん)に会い、その法力を感得して、修験道を確立しました。
672年(天武天皇元年)役行者39歳の時「壬申の乱」では、大海人皇子(第40代天武天皇)に味方して戦を勝利に導きました。
役行者66歳の時、葛城山の岩橋山(標高659m)から吉野の金峰山に石橋(いわはし)を架けるため、一言主命は顔が余りにも醜く、暗い夜しか働かないので、役行者が怒って一言主を呪縛し、深谷に押籠(おしこ)めたので、役行者の弟子の韓国連広足(からくにノむらじひろたり)が「役行者は世の人々を惑わし、謀反を企てている」と朝廷に告げたので、捕らえられ伊豆の大島へ流されたと言う事です。
伊豆に流された役行者は、昼間は大人しくしていましたが、夜になると富士山へ登って修行をし、遂に飛行術を会得して、あちこちを飛び回り、相模の江ノ島の裸弁天の影向(ようごう、神仏の仮の姿)等を拝していましたが、都から彼を殺そうとしてやって来た使に対し、使の刀を乞い受け、彼が舌で舐めると、文字が浮き出たので読むと、富慈の明神の上表文なので皆が驚き、使が慌てて都へ帰り、言上して天裁を仰ぎ、やっと彼は罪を許されました。
701年(大宝元年)彼が68歳の時、母親を鉢に乗せて唐の国へ飛んで行ってしまったと云い、なお、「日本霊異記」上巻28によると、道照法師が唐へ往られた時、新羅の五百の虎の要請により、法華経を講じていたら、聴衆の中に日本語で質問する者がいて、名を尋ねると「役優婆塞」と名乗ったと伝えられます。