空海が修業時代、全国の山々を遍歴していたとき、紀伊国高野の山(きいのくにたかののやま、現在の高野山)に着目していました。高野の峰に瞑想のための道場を建てるため、朝廷の許しを得て高野の峰を頂きました。八一八年十一月、空海は高野の峰を目指して旅立ちました。この前年には、弟子の実恵(じちえ)たちが高野におもむき、その準備をはじめていました。八一九年三月には完成した寺の名前を「金剛峯寺」(こんごうぶじ)と名付けました。金剛峯寺の形式は、空海独自の考えに基づくものでした。しかし、この寺は私的な寺で、しかも都から遠いため工事がなかなか進まず、この伽藍(がらん)が完成するのは約七十年後のことでした。 なかなか造営がすすまない金剛峯寺に対して空海は八三二年八月、高野において万灯万華の法会(まんどうまんげほうえ)をおこないました。これはたくさんの灯明とたくさんの華で仏をたたえ、仏の助けをかりて早く伽藍を完成させたいという願いがこめられていました。 この灯を供養することについては、有名な「貧者の一灯」の話が伝えられています。仏さまに灯を供養するために多数の人々が油を買っては供養していました。ある貧しい女性は、灯を供養したくても油を買うお金もなく、さりとてそのままに過ごすことは心がゆるさないので自分の髪の毛を売って、わずかばかりの油を買い灯明を仏さまにささげました。それは貴族や金持たちの供養した何千という灯のもとでは、いまにも消えいりそうな灯でした。その夜、にわかに風が吹き出し、次々と灯が吹き消されていきましたが一夜あけてもたった一つ燃えつゞけていた灯がありました。それは自分の髪の毛を売って供養した貧者の灯であったという話です。 |
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