■ 豊臣秀吉 (1536〜1598)
 秀吉の生い立ちは一切不明で、幼時から青年まで明確な史料はなく、逸話創作に包まれている。
 竹中重門(半兵衛重治の子)の『豊鑑』には、「尾張国愛知郡中村郷のあやしい民の子で、父母の名も知られてない」とあり、『甫庵太閤記』第一巻、『秀吉公素姓』には、天文5年(1536)尾張中村に、織田信長に仕えた足軽、木下弥右衛門の子として誕生、母(のちの大政所)は美濃の鍛冶関兼貞の娘(弥右衛門の死後、織田家の同朋衆、筑阿弥に再縁)」とある。
 近年では、中世の技術集団(鍛治氏、鋳物師、木地師など、山における技術者)の出身という説や、豪農の息子という説まである。
 ちなみに、秀吉の弟秀長と、妹、朝日姫(のちに徳川家康夫人)は、筑阿弥の子と言われる。幼名として知られる日吉丸は後世の創作と言われ、どじょう売りの与助と名乗った伝えもある。
 藤吉郎は14歳(天文20年 1551)のときに中村(名古屋市)を出て、天文23年まで浜松の頭陀寺城主である松下源太左衛門長則に仕えて兵学を習いました。また、長則は今川義元の兵学の師でもありました。
 「良い鳥は止まるにも枝を選ぶ」ということわざのとおり、藤吉郎は念願の信長へ仕官を計画しました。

 武功夜話には、次のように記されています。
 「この人(藤吉郎)弘治元年の夏越方の出会いと承るなり。尾州小折村の生駒屋敷、雲球宅(家長)に候。蜂須賀小六殿、雲球屋敷で見知り、不審の儀もこれあり、乱波の類(間諜)にて候わずや、風体は無類の輩の如く小兵なれども武芸あり、兵法の嗜も深く得体知り難し、仕切りに小六の稼ぎ好み候なり。やむなく小六殿宮後屋敷に伴ひ、出入り御用に足し候。彼の者、信長公に奉公の濫觴は久庵様御口添えあるによる所、多大なり。久庵様の前少しも憚らず、色話もしばしば、生来の利口者なば、久庵様の御機嫌取ること巧みなり。」

 「武功夜話」に記されているように吉乃の方に見込まれた藤吉郎は、ほかの食客と違って陰ひなたなく働き、目から鼻に抜けるような英知と敏しょうな言動から吉乃の方を動かすところとなり、吉乃の方は信長に「将来必ずお館様の片腕となられるお人でございます。ぜひ部下の一人に加えてやってくだされ」と口添えし、仕官を果たし加納馬場十五貫文を賜り、これが天下人になる出発だったのです。
 墨俣築城には蜂須賀小六と前野将右衛門の存在が大きく寄与しています。小六は木曽川一帯の川並衆を治める頭領であり、宮後(母の在所)に住んで、この地方の豪族やその協力者をまとめていました。前野将右衛門は、前野氏十四代小坂氏を名乗った孫九郎の弟で、はじめ織田信長の小姓役でしたが、後に犬山城主織田信清に仕えていた時、信清が信長に攻略されて浪人となりました。その後、蜂須賀小六とともに秀吉(籐吉郎)に仕えました。いつも小六と会い、小六を兄と慕い、義兄弟の契りを結ぶ気心の合った間柄でした。
 藤吉郎と小六は生駒屋敷以来、お互い人生観に共通する面を肌で感じ、深いきずなで結ばれ、藤吉郎は小六に力を借りることになります。この大作戦は緻密な計画をもってしなければ達成できるものではなく、小六・秀吉ともに配下にすばらしい才能の持ち主が数多くいたことを見逃すことはできません。
蜂須賀小六は、美濃と尾張の国境、木曽川の川並衆の頭領として、前野将右衛門などと組み、その後木下藤吉郎(のち豊臣秀吉)と行動をともにしました。
 蜂須賀家は尾張守護代斯波氏とのつながりがあるともいわれ、尾張国衙領である蜂須賀村(海部郡美和町)に住み、下地を預かる尾張の豪族でした。はじめ美濃の斎藤道三に、その後豊臣秀吉に仕えました。
 小六は事情があって母の在所である宮後に住むことが多く、叔父の安井弥兵衛の屋敷がいつのまにか蜂須賀家屋敷と呼ばれるようになってしまいました。そして永禄のはじめ、信長の側室吉乃の方の生家、生駒家に藤吉郎とともに奇遇していた時があり、織田信長、木下藤吉郎、小六は互いに知り合いの間柄となり、主従の結び付きが生じました。
 信長の天下統一に向かった桶狭間の戦いでの諜報作戦で大きな力になり、その後藤吉郎とともに墨俣一夜城の築城作戦などで活躍しました。また、信長亡きあとの秀吉の天下とりには必ず小六が存在し、彼の知謀によって敵を壊滅に導いています。

■ 加藤清正(1562〜1611)
 豊臣秀吉とは遠戚にあたり、同じ尾張中村に生まれる。身内に恵まれなかった秀吉は、清正をわが子のように扱い、特別に目をかけた。清正は若い時期に尾張を離れ、秀吉の子飼いの武将として賤ヶ岳の合戦で「七本槍」の1人として活躍、秀吉の天下統一事業に貢献し、肥後25万石の大名に取り立てら成長を遂げていった。
 朝鮮出兵でも暴れ回り、戦功を立てる。その時の虎退治は有名な話である。しかし、秀吉が死後は 好きな戦場を駆けまわることはできなくなり、もっぱら豊臣家の存続に頭を悩ませることになる。
 関ヶ原の戦いでは、文治派の石田三成を嫌い、「この戦は三成の野心が起こしたものである」と公言。東軍に組みして熊本から動かなかった。戦後52万石に加増され、清洲越しに伴う名古屋城築城では天守閣を独力で完成させた。また秀頼の保護に尽力し、慶長16年(1611年)、家康と秀頼の二条城での対面では片時も秀頼の側を離れずに護衛した。そして、その2ヶ月後にあっけなく死んだ。武闘派の清正にとって、当時の世相では満足に生きられなかったのであろう。晩年は酒を飲んで物思いにふけることが多く、気苦労からの脳溢血とされる。また、家康の謀略による毒殺との噂もある。