南区に残る東海道は天白川に架かる天白橋から山崎川の山崎橋まで約3.5kmの道筋 が残されている。途中、古くから開かれた塩の道・塩付街道、古道・鎌倉街道と交叉する歴史の道です。
よびつぎの浜は南北朝時代の歌「鳴海潟夕浪千鳥たちかへり 友よびつぎの浜 に啼くなり」に出てくる。
なお鎌倉時代の笠覆寺文書にも「呼続の浦」とあるので、よびつぎの浜は古くからの呼び名であったようだ。また室町時代の完祇の紀行文に「よびつぎの浜に は、海士の家居あり、塩屋かづかづ見えたり」ともあり、南区が中世から塩田地 帯であったことを思わせる。 地形的には山崎川を挾んで瑞穂台地と笠寺台地の間の低地を呼続の浜と呼んでいる。

鎌倉街道と白豪寺・湯浴地蔵
白毫寺は元亀2年(1571)の創建と伝えられる。昔、このあたりは、あゆち潟、知多の浦を望む勝景の地であって、万葉歌人などが歌に詠んだところである。名勝・旧「年魚市潟」展望地として、市指定になっている。「あゆち」は「あいち」に転じ県名の語源となった。また、源頼朝が京都へのぼる途中、ここに休んだので棧敷山ともいわれる。境内には、勝景跡の碑や歌碑、芭蕉句碑などが点在している。
呼続あたりの旧東海道
鎌倉街道と交叉する
鎌倉街道を西に向かうと年魚市潟景勝跡・白豪寺がある
面影を残す鎌倉街道
名鉄電車は景観には最悪である。
皮膚病に御利益がある。住職も檀家もないが名古屋21大師の一つ

熊野三社:昔この辺りは松巨嶋ともよばれた。戦国武将・織田信長配下の佐久間信盛の勧請で山崎城内に建立。
珍しい西向きの鳥居
手入れの行き届いた境内
明和三年(1776年)製の手洗
以前はここに鳥居があったに違いない
東海道に続く里道
里道沿いの地蔵堂
街道の警備にあたった山崎城跡
南区としては終点となる山崎橋