永禄3年5月織田信長が今川義元の大軍を破り、天下統一への糸口を作った戦いの地です。古戦場内には、花崗岩の石柱で「七石表」があります。七石表は、義元以下7人の武将の塚で、1号碑から7号碑までの7基があり、1号碑には「今川義元戦死所」とあり、義元戦死の場所とされています。七石表のほか、戦いの概要を記した弔古碑等もあり、現在公園となっています。
豊明市には今川軍の戦死者2,500余人を曹源寺二世快翁龍喜和尚が埋葬供養した塚で、昔は、駿河塚と呼ばれた戦人塚や桶狭間の戦い(永禄3年5月19日)の前日、今川義元がここで一夜の眠りに就いた沓掛城があったりするため、どうも義元に手厚く感じられます。また、境川より東にあるにもかかわらず、家康の出身地である岡崎に近いためか、どうも三河気風が強く思われます。
豊明市の桶狭間跡
古戦場弔いの碑
高徳院前の今川義元公の墓
今川義元の墓
古戦場碑
七石表の一碑:義元戦死の場所
今川義元公の墓
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