東区は昔,尾張国山田郡といわれていました。この山田荘は752年(天平勝宝4)東大寺大仏開眼供養のおり、天皇から寄進されたもので、東大寺領は郡名を荘号に使ったということである。
大永四年(1524)以降、織田家の支配の時、山田郡は愛知郡・春日井郡に編入されて消滅する。
第二十八番札所 霊鷲山 長母寺 (ちょうぼじ)
矢田川南岸の、広い河川敷と木ヶ崎公園の緑につながる景勝の地にある。承久の乱に活躍した山田次郎重忠が治承3年 (1179)、母のために創建。開山堂の無住国師の等身大の木像、無住国師墨跡重文。石井垂穂の狂歌碑もあり、尾張万歳の発祥の地でもある。
長母寺縁起
 治承3年(1179)に、山田次郎重忠が熱田明神から「木賀崎は佛法興隆の霊地であるから梵刹を建立せよ。」との夢のお告げを受けて創建したと伝えられる。
 はじめは、亀鏡山桃尾寺と称し、天台宗の寺であったが、弘長2年(1262)に原氏の末裔と言われれる無住国師が来往し、臨済宗東福寺派に改め、山田道円坊が、佛堂、僧堂、方丈などの諸宇を建立、北条時頼から寺領三百五十石を賜り、霊鷲山長母寺と称するようになった。
 蒙古襲来のあった弘安4年(1281)には御宇多帝の勅願所となり、国中に末山93ケ寺を有する大寺となった。
 無住国師は没するまでの50年間長母寺に住し、その間「沙石集」をはじめ多くの著述をなし、尾張萬歳を始めたと言われる。
その後、天正5年(1577)には織田信長から340石の寄進を受け、これまでの寄付田を合わせて1200石余を有するようになった。しかし、文禄(1592〜1595)の頃の太閤検地によって寺領は没収され、大伽藍は破壊し、極度に衰えた。慶安3年(1650)昭山和尚により、もとの五山派に復し、天和2年(1682)中興雪渓和尚が、尾張二代藩主光友の命により塔堂を再建した
 明治24年(1891)の濃尾地震では本堂が倒壊したが、3年後に再建された。昭和34年(1959)の伊勢湾台風では、山内樹木の大半が倒れ、本堂、庫裡に大きな被害を受けたが、そのご復旧し、境内も徐々に整備されつつある。
本堂の石垣の中の椿、山茶花、榊、ねずみもちなどの木に、檜の芽と呼ばれる寄生木が生えている。伝説によれば、無住国師入定のとき「私はこれからあの世に行くが、もしあの世に極楽があるなら、ここの木に檜の芽を生やしてやろう。」といわれた。檜の枝で身体をはらい清めてなくなられたが、しばらくして種々の木に檜の芽が生じたので、これは極楽がある証拠の木と言うことで、無住国師の奇端の一つである。
 尾張漫才は、長母寺の住職であった無住国師が、仏教を説いて漫才を作り、弟子の徳若が節を付けたのが始まりと言われている。たまたま大高(名古屋市)や藪(東海市養父)、寺本(知多市八幡)が長母寺の寺領であったことから、知多北部の地域に漫才が普及した。知多半島は、丘陵が多く耕作地が少なく、人口に対する田畑の比は、尾張八郡の中で最低で、生産力の不足を出稼ぎに頼るしかなかった。
 漫才は、農閑期における出稼ぎとして発展したのである。

 平城京跡の発掘調査がおこなわれ、掘り出された多くの遺物の中に、木の札に墨で文字を書いた木簡と呼ばれるものが2万点近くも出土した。そのなかに赤米5斗を山田郡の山口郷から送ったことを示すものが出土した。この時代に都の支配を受けていたことをうかがい知ることができる。山田郡の範囲は、東は三国山、西は名古屋市西区、南は境川、北は玉野川までであった。現在は北区山田町に名残りを留めます。
 山田重忠のこと

 平安時代に入ると、中央政治力が衰え、地方の治安が乱れ、荘園を自衛するために地方武士団がおこってきた。
  1079年(承暦3)美濃にいた源重宗(重遠の義父)らは、金華山で兵を挙げた。青野が原に出陣して、京都から追討に向かった源義家の軍と奮戦したが、大敗して重宗も戦死した。
  このために美濃を離散した山田氏の一族は尾張へ潜入してきた。山田重定は菱野に城を築いて移り住み、重房は水野に移り住むようになったといわれている。
  1192年(建久3)源頼朝は鎌倉に幕府をひらき、諸国に、守護・地頭を置いた。このとき山田重忠は山田荘の地頭となった。
  1221年(承久3)後鳥羽上皇は、朝廷の権力をとりもどすために、時の執権北条義時を討つ命令を全国に出した。この命令に大和・美濃・尾張など14か国の武士たちが応じて立ちあがった。これが、いわゆる承久の乱である。
  この時、山田重忠は上皇方につき一族郎党を率いて木曽川の墨股を守った。水野城の水野左近や品野城の大金重高なども手勢を率いて重忠に従って奮戦した。
  しかし10万余騎の幕府軍におされて、京都の宇治川まで敗走したが、ここでも敗れ重忠は自害し、重継は捕らえられて殺された。
  その後、山田泰親・親氏の兄弟が菱野の地頭に任じられ、荘内の取り締まりにあたるようになった。泰親は信仰心があつく仏門に入り、1283年(弘安6)瀬戸市山口に本泉寺を建て仏教をひろめるようになったと寺伝にある。


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