平安時代に入ると、中央政治力が衰え、地方の治安が乱れ、荘園を自衛するために地方武士団がおこってきた。 1079年(承暦3)美濃にいた源重宗(重遠の義父)らは、金華山で兵を挙げた。青野が原に出陣して、京都から追討に向かった源義家の軍と奮戦したが、大敗して重宗も戦死した。 このために美濃を離散した山田氏の一族は尾張へ潜入してきた。山田重定は菱野に城を築いて移り住み、重房は水野に移り住むようになったといわれている。 1192年(建久3)源頼朝は鎌倉に幕府をひらき、諸国に、守護・地頭を置いた。このとき山田重忠は山田荘の地頭となった。 1221年(承久3)後鳥羽上皇は、朝廷の権力をとりもどすために、時の執権北条義時を討つ命令を全国に出した。この命令に大和・美濃・尾張など14か国の武士たちが応じて立ちあがった。これが、いわゆる承久の乱である。 この時、山田重忠は上皇方につき一族郎党を率いて木曽川の墨股を守った。水野城の水野左近や品野城の大金重高なども手勢を率いて重忠に従って奮戦した。 しかし10万余騎の幕府軍におされて、京都の宇治川まで敗走したが、ここでも敗れ重忠は自害し、重継は捕らえられて殺された。 その後、山田泰親・親氏の兄弟が菱野の地頭に任じられ、荘内の取り締まりにあたるようになった。泰親は信仰心があつく仏門に入り、1283年(弘安6)瀬戸市山口に本泉寺を建て仏教をひろめるようになったと寺伝にある。