1968年に地下鉄三田線が通り、1971〜72年には高島平団地が作られ、都内有数のマンモス団地となった。高島平の地名は高島秋帆に因んで付けられた。
萬古山松月院:境内には、高島秋帆の功績を称え、大正11年に建てられた「高島秋帆先生紀功碑」がある。
永平寺派萬古山松月院入口
境内より山門入口を望む
堂々の山門
享徳・康正のころ、鎌倉菅領・上杉氏と古川公方・足利氏の争乱は関東を二分し、名族・千葉氏の一族も双方に組みし、骨肉相喰む争いの結果、康正二年(1456)千葉自胤は戦い破れ、傷心の身を上杉方の柱石・太田道懽に守られ赤塚城に移り、勢力を挽回し、南武蔵の大豪族となった。
赤塚城主千葉自胤 の墓所

高島秋帆の大砲
 高島秋帆は天保12年(1841)、この寺に本陣を置き、門弟100名と起居を共にし、徳丸原で西洋砲術の訓練を公開した。高島秋帆が砲術の訓練を行った徳丸原(徳丸ヶ原)一帯は水田が広がり、かつては「城北の穀倉地帯」とも言われた。

周辺の風景:寺の側にある資料館脇の森林保護地区
赤塚山で森林浴
住宅地に真面目に畑作する農家あり
この駅がぴったりでしょう。