力石
この二つの石は寛文七年(1667)城主遠藤常友が城を修理するため領内から多数の人夫を集めたとき、その中の一人である大和町の作兵衛(通称、赤ひげ)が城下の河原から背負ってこの地まで運び上げたものである。(重さ約350キロ、長さ約1メートル、厚さ約30センチ)奉行の村上貞右衛門がその力量の優れているのを見て激賞すると彼は感涙し、たちまち力尽きてその場で卒倒し息絶えてしまった。
奉行は憐れに思ってこの石の使用を禁じたが。昭和八年に天守閣を建設する際この石が草の中に捨てられているのを見た古川七兵衛氏が作兵衛の心根が世に忘れられたのを嘆き、この地に碑として安置して顕彰しその礎石に事のあらましを記したものである。(隣接する立て看板より) |