柳生石舟斎宗厳は戦国末期、上泉伊勢守に師事し新陰流の奥義をきわめ、柳生新陰流を創始。その子・但馬守宗矩は徳川家の兵法指南役として秀忠・家光に新陰流を教授、一万石余の大名の列に加わり、やがて大目付けの要職についた。
2002年5月ゴールデンウィークの途中下車・柳生の里
石舟斎、宗矩、十兵衛、荒木又右衛門などの剣豪達が、何を思い何を夢見てこの道を歩いたのだろう。芳徳寺への橋と山門および柳生家墓所前の六地蔵。宗矩木造、手前が十兵衛、奥が宗矩の墓石。
戸岩谷の一刀石:7m四方ほどの巨石で、中央から割れている。「宗巌の修行中に天狗と試合をし、一刀のもとに切り捨てたと思ったが、刀はその場にあった巨石を割っていた。」と伝承されている。
茶畑が美しく、天の岩戸伝説の残る不思議な雰囲気の景観である。
陣屋跡と家老屋敷および落雷で枯れてしまった十兵衛杉
柳生家家老・小山田主鈴は逼迫する藩財政の立て直しを、大阪堂島の米相場で巨利をえて成功。伝承では成功の陰には妻保女が「こんにゃく橋」を流れる川の水温によって冷害を予測、米価の急騰を示唆した。家老屋敷は昭和35年、作家・山岡荘八に買い取られ、NHK大河ドラマ「春の坂道」はここで執筆され、柳生ブームとなった。