四方を山に囲まれた海抜500mの盆地、天野にあり、およそ1700年前の創祀と伝わる。丹生都比売大神は天照皇大神の妹神で稚日女ともいい、紀伊国奄田(三谷)に降臨され、御子高野御子大神とともに紀伊・大和地方を巡歴、終焉の聖地として天野原に上り鎮まる。弘法大師が高野山を開くにあたり高野御子が狩人に変身し黒白2頭の犬にて案内した伝説が残る。
2002年正月の途中下車・丹生都比売神社
 天野の里は、かつらぎ町から車で、南へ紀ノ川を渡り20分程山道を上ると標高500mの盆地にでます。山間の地に突然の平地の出現が意表をつき驚かされます。さらに朱塗りの鳥居、太鼓橋、楼門がみどり濃い樹間に夢のような雰囲気をただよわせて見事です。本殿は春日造りの社殿が四棟、いずれも文明元年(1469)の再建。二層入母屋造りの楼門は、おなじ室町中期の再建(重文)で、その豪壮な姿はこの古社の由緒の深さがしのばれます。
 西暦270年、応神天皇によって丹生郡比売神が、天野の里に祀られ、その後弘仁7年(816)空海が天野の社のそばに曼陀羅院を建て、そこを起点として高野山を開いたのでした。弘仁10年、丹生・高野のニつの神が、大師によって高野山に勧請され、天野の祀は高野山の地主神として祀られてきました。
 真言密教の殿堂高野にも、栄枯盛衰がありました。争い、大火等によりニ度の荒廃がありました。延喜16年(916)より、五年間、長保3年(1001)より十五年間の高野山は人の住める状態でなく、その間僧は天野社の神宮寺、山王院に住居し、夏の時季だけ高野山に通い大師を供養したといいます。この荒廃した時期、高野山の復興に努めたのが、天野検校と言われた雅真僧都と、祈親上人でした。その後、源頼朝の子、行勝上人により、気比明神と厳島明神が勧請され、天野社も四社となりました。皇族・貴族の参詣も多くあった天野社には、国宝、重文も数多く、現在までに残されている建物は室町時代のものと言われています。
 祭り神が女神のせいか、天野は、どことなく女人のかなしさを感じさせる里である。ここには、さまざまな女の貌がある。女人禁制の高野山に登れず、この地にとどまって世を終えた女たちのあわれを伝える話が、数多く残されています。
 美女、横笛との恋のため侍の世界をすてて出家し、高野山にのぼった斎藤時頼(滝口入道)、その時頼のあとを慕って横笛は、高野山頂まで二里のこの里にきて草庵をむすぶ。ここにおれば、どのようなことで時頼に逢えるかもしれない。横笛は、ひたすらそれを念じていました。横笛が、時頼への恋をつのらせながら、かりそめの病を得て幸薄い生涯をとじたのは、それから間もない19の冬でした。 こうして横笛は、ついに時頼に逢うこともなく、里の農婦たちに見取られながら寂しく死んでいったのです。
 世を捨て妻子をすてて放浪の旅に出た佐藤義清(西行)を追ってこの地に住みつき、髪をおろして世をおえた妻と娘の二基の宝きょう印塔があります。
「世を捨つる人はまことに捨つるかは 捨てぬ人こそ捨つるなりけり」<西行「山家集」高野の歌>
理不尽に夫に父に捨てられた妻娘のかなしさにひきかえ、遁世後も艶聞の絶えなかったという西行の歌です。
 高野山奥の院に、千年もの間消えることなく、光輝いている「貧女のー燈」といわれるものがあります。その燈を納めた娘「お照」の墓と伝えられる塚が天野にあります。

 丹生の「丹」とは、丹砂あるいは水銀のことである。水銀は自然に採取される場合と、丹砂を蒸留して精製する場合がある。丹砂は、朱砂・辰砂ともいい、そのまま朱の原料ともなる。古代において、魔除・仏像などの金メッキ・染料・顔料に使用され、重要な資源であった。本来、丹生都比売は、その鉱物資源採取を生業とする丹生氏の奉じる神であった。
 道教の思想の中心は「道」、技術の中心は「丹」である。丹には、内丹と外丹があり、内丹は呼吸法や瞑想で自己の中に「丹」を精製し不老長寿を目指す。外丹は服薬で仙人(不老長寿)になるもので、主に水銀を用いる。中国の歴代皇帝の中には水銀中毒で死んだものも数多くいる。それほど、水銀は重要なものだった。