町は、城を中心に広がり、かつて雑賀(さいか)と呼ばれた地には、新しい町名が付けられました。街には「大水道」と呼ばれる下水道設備が完備しており、紀州徳川家55万5千石の富みが集積されていました。江戸後期には約9万人の人口を擁する全国7位の近世都市でした。
2002年6月の途中下車:和歌山城
 和歌山城は,天正13(1585)年豊臣秀吉が紀州を平定後,自ら虎伏山を縄張りして弟の秀長に築城させたことに始まる。その後慶長5(1600)年に浅野氏が37万6千石を領して入城し,続いて元和5(1619)年に徳川家康の第十子頼宣が入城,紀州徳川55万5千石の居城となり,尾張・水戸と共に徳川御三家として明治維新までの長い歴史を刻んできた。
 天守閣は,大天守・小天守・乾櫓・二の門櫓・楠門を多門で接続させた連立式天守閣で,江戸時代初期の建築様式をよく残している。一時は太平洋戦争の戦禍により焼失し,その姿は見られなかったが,昭和33(1958)年に戦前国宝にも指定されていた江戸時代の姿そのままに再建され,再び和歌山市のシンボルとして,その雄姿を誇っている。
和歌山といえば井出商店の「和歌山ラーメン」、開店30分前に並びました。思わず食べてしまい、ラーメンを写真に収めるのを忘れてしまいました。あしからず。とってもおいしかったです。
 岡口門は,天守台南東の虎口にあたり,東面して建っている。浅野氏時代は大手門であったが,徳川氏入城後の元和7(1621)年大手を一の橋に移した際に改修され,以後搦手門として現在に至っている。現在の建物は元和再興の時の建立と思われ,北側の土塀と共に太平洋戦争の戦禍をまぬがれた,城内に現存する唯一の江戸時代の建造物である。
中世の和歌山は、司馬遼太郎さんの小説「しりくらえ孫市」で有名な「雑賀孫市」のふるさとです。孫市は、正確には雑賀(さいか)出身の鈴木孫一です。小説では雑賀崎にその居城があったことになっていますが、城下町が開かれる以前の現在の市街地が、雑賀と呼ばれていました。ですから、孫一は、現在の和歌山市の中心に住んでいたのかも知れません。

 ところで、和歌山には武田信玄や上杉謙信のような強大な戦国大名がいませんでした。このため、この地にいた有力な農民たちは、強力な支配を受けることなく、比較的自由に暮らしていました。戦国時代にこの地を訪れた宣教師ルイス・フロイスは、この地の人々を「富裕な農夫」と呼んでいました。彼らの自由は信仰においても貫かれていました。全国制覇をもくろむ織田信長に対抗した本願寺教団は、勅命講和後に石山(現大阪市)を退去しますが、その教団を鷺森(さぎのもり・和歌山市内)に暖かく迎え入れたのは、中世の自由な人々の住むこの雑賀の地でした。

自由な雑賀の人々も天正13年(1585)に全国制覇を目指す豊臣秀吉に征服されます。秀吉は、この地を支配するために和歌山城を築きます。関ケ原合戦後浅野家が紀州に入国し、豊臣家滅亡後の元和5年(1619)には、徳川家康の第10子徳川頼宣が55万5千石を領して和歌山城に入ります。以後、和歌山の町は、江戸幕府御三家の紀州徳川家の城下町として栄えます。