3世紀後半、大和朝廷が成立し、第10代崇神(すじん)天皇が在位され、山辺に近い磯城瑞籬宮(しきみずがきのみや)に都された。この崇神天皇のときまで宮中に奉斎され、天皇と御座を同じくされていた天剣を、物部伊香雄命に銘じて十種神宝(とくさのかんだから) と共に石上邑に奉祀された。これが、石上神宮の始まりであるという。
2002年6月の途中下車:石上(いそのかみ)神宮
石上神宮は桜井方面に向かう「山辺の道」の天理側からの“起点”でもある。
 鳥居の手前左手に、柿本人麻呂の歌碑がある。高さ2.3m。
「をとめらが 袖布留山の瑞垣の 久しき時ゆ 思ひきわれは」(万葉集巻四)
「石上 布留の神杉 神さぶる 恋をもわれは さらにするかも」 
垂仁天皇の時代には、五十瓊敷(いにしき)命が剣1,000口を奉納され、神庫(ほくら)を管理された。
 その後、かの素盞嗚(すさのお)命が八岐大蛇(やまたのおろち) を退治した天羽羽斬(あめのはばきり)剣もここに祀られた。いまも楼門前に鎮座する延喜式内社、出雲建雄神社の祭神を草薙剣の御霊ととなえ奉斎しており、我が国の霊剣はここに集まっていると伝える。いわば大和朝廷の武器庫が神格化されたものであり、ここを支配するものが時の最高権力者であったのであろう。
 祭神は、神武天皇東征のときに、国土平定に偉功のあった天剣(平国之剣=くにむけしつるぎ)と、その霊威を「布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)」。鎮魂(たまふり)の主体である天璽十種瑞宝(あまつしるしとくさのみづのたから)と、その起死回生の霊力を「布留御魂大神(ふるのみたまのおおかみ)」。素盞嗚尊が八岐大蛇を退治された天十握剣(あめのとつかのつるぎ)の霊威を「布都斯魂大神(ふつしみたまのおおかみ)」と称え、総称して石上大神(いそのかみのおおかみ)と仰ぎ、第十代崇神天皇7年に現地石上布留の高庭(たかにわ)に祀られました。古典には『石上神宮』『石上振神宮』『石上坐布都御魂神社』と記され、この他『石上社』『布留社』とも呼ばれていました。

 古(いにしえ)、神宮の神庫には歴代天皇や諸氏族から奉献された楯・鉾・太刀・玉・装身具など、多くの神宝が『延喜式』にある伴、佐伯の2殿に納められていたという。平安京への遷都に伴い、桓武天皇の時に、その神宝を山城国葛野郡の兵庫(京都府)へ運ぶのに延べ15万7000人が働いたが、異変があり、再び元の神庫に戻されたとも伝える。
  石上を支配していたのは、かの大化の改新に登場する物部(もののべ)氏。“モノ”は精霊を意味し、平安朝になったモノの怨霊と解せられて“モノノケ”といわれた。この“モノ”を取り扱うのに著しい呪術を伝えたのが物部氏で、中でも十種神宝をもって、天皇の霊を扱ったという。
大嘗祭(天皇が即位後、最初に行う新嘗祭)の時、物部氏が宮門の威儀に立ち、大楯を楯、弓の弦を鳴らして鳴弦の呪術を行い、悪霊を追放する役目を務めた。この呪術にたけ、部門の棟梁であった物部氏が、のちの“モノノフ=武士”の原型でもあるという。 ――同神宮パンフレットより