毎年3月3日には,お雛様を白木の舟に乗せて加太の海へ流す雛流し神事が行われ,信仰への一途なこころが伝わってくるようです。 拝殿の廻りも供養待ちの各種人形で埋まっています。
2002年6月の途中下車:加太・淡嶋神社
 その昔、神功皇后が三韓出兵からお帰りの際、瀬戸の海上で激しい嵐に出会いました。沈みそうになる船の中で神に祈りを捧げると、お告げがありました。
「船の苫(とま)を海に投げ、その流れのままに船を進めよ。」
その通りに船を進めると、ひとつの島にたどり着く事が出来ました。その島が、友ヶ島です。その島には、少彦名命と大己貴命が祭られていて、皇后さまは助けてくれたお礼の気持ちを込めて、持ち帰ってきた宝物をお供えになりました。
 その後、何年か経ち、神功皇后の孫にあたられる仁徳天皇が友ヶ島に狩りに来られ、いきさつをお聞きになりました。そこで、島では何かとご不自由であろうと、お社を対岸の加太に移され、ご社殿をお建てになったのが、加太淡嶋神社の起こりとされています。
友が島の向こうは淡路か阿波か? 鳥居下の店でさざえのつぼ焼き、各種干物を焼いてくれます。
大和朝廷の時代[7世紀天智天皇の頃に日本国が成立]には、和歌山市は都へつなぐ海の玄関口で、紀ノ川は大和盆地と外洋を結ぶ国家のメインルートであった。したがって、紀州北部地域は中国、朝鮮半島からの渡来人の溜まり場となっていたものと思われる。それに関連があるのか、ここには日本各地の多くの地名が存在する。地名の本当のルーツは移入民族の言葉にあると考えられている。